勿論「行く年来る年」と「来し方行く末」では、基準の違いがある。「行く年来る年」では自分は動かず時間の方が動いているのに対し、「来し方行く末」では移動しているのは自分の方である。前者が客体的であるのに対し、後者は主体的である。こういった基準や視点による表現の違いも日本語の大きな魅力の一つだが、今は、どちらが静止し、どちらが移動していても相対論的には同じことであると無理矢理に見なして、過去か未来かということだけに絞って考えたい。
では、なぜ過去に対してはより厳格な時制ルールで以て臨み、未来に対しては比較的緩いのか。それは、人間が前を向いた生き物だからだ。前を目方(まえ)と書けばより分かり易かろう。視界は前方に開かれ、移動体は脇を過ぎればすぐに見えなくなってしまう。未来は前方に開かれ若干のパースが利くのに対し、今を過ぎれば瞬時にしてすべてが過去となる。故に日本語では過去に厳格なのであろう。取り返しがつかぬことだからである。
その一方、未来に対し与えられた緩さは、見える範囲においては自分のものと思っていいということである。ここに我々は過去とは違う、少しばかりの希望を未来に持つことができるのである。
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