東日本大震災から10年を迎えるにあたり、メディアはこぞって被災地の現在を伝えました。被災地の人たちが頑張り気を張って生きる姿に、震災直後からボランティア活動で現地を行き来しているメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者の引地達也さんは、「もう少し心を開放してもよい」と案じます。引地さんは、阪神淡路大震災では被災後10年を経てPTSD(外傷性ストレス障害)を発症した例もあると、これからも大人は常に備えておく必要があることに加え、「頑張らない」ことを支援する政策の必要性を訴えています。
頑張り続けた10年に「頑張らない」を支援する政策を
2011年3月11日の東日本大震災から10年の日本は、区切りに何かを刻もうと躍起になるメディアに観る側もそれにつられたり、反発したり、であるが、この大きな出来事は同時代を日本で生きる人の数程ストーリーがある。
それを思えば、ここに些細な私という自分のストーリーを書くのにはためらいがある。それでも、それらバラバラのストーリーはそれぞれの人生のかけがえのないドラマだと尊重した上で、この社会に生きる上で共有していくものがあるのではないかという思いはある。
これまで、伝えることで「共有するのは、災害を教訓として悲劇を繰り返さないためだと信じて疑わなかったが、10年が経て気づくのは、あの悲劇をどのように、収めるべきなのかを教えてほしいという感覚である。忘れたい人、忘れたくない人も、やり場のない圧倒的な記憶を「どのように」したらよいか分からないでいるように思えてならない。
約10年前の2011年6月17日、現場でボランティアを展開していた私はチャイルド・リサーチ・ネットからコラムの執筆を依頼され、こう書いた。
「今、押しこめられ、闇に葬られようとしている子どもの整理できないだろう悲しい体験を大人が受け止める準備をすることであり、それは私たちの責務のような気がしてならない」
その責務を感じて、10年後を見据えてこうも指摘した。
「1995年の阪神淡路大震災では、問題がないと思われる所謂『おりこうさん』の子どもが10年後に外傷性ストレス障害(PTSD)を突然発症した例もある。身の回りの子どもが、『おりこうさん』でも、ある日突然PTSDの症状が出てくる可能性があり、『その時』がいつかは分からない。
私はその分野の専門家ではないが、言えることは、『その時』まで、大人たちは、発症した子どもたちを受け止める準備をしなければならない、という発想で精神を支え合う社会を再構築しなければならない」
● 子どもを受け止めるための、個々のつながり、を目指して – CRN 子どもは未来である
今、メディアで描かれているのは、これら被災地の子供たちの10年後の物語である。悲劇から歩み、暮らし、大人になった物語は多くの人が感動するものの、それで安心を得られたわけでもなく、まだまだ心細いままだ。
トラウマはいつ現れるか分からない。必死で生きてきた10年だからこそ忘れられたかもしれない。問題はここからかもしれないのである。思い切り泣いていい、思う存分叫んでもよいとなった時、堰を切ったように感情があふれ出ることもある。それは、本当に開放された瞬間だから、頑張っている姿を見れば見るほど、開放されず我慢を続けているような気がして心配になる。
10年の節目はない。そういう人がいる。まだ復興は終わっていないし、癒されてもいない、と。それもそうだが、ここまで頑張ってきた、気を張って何とか生きてきたところから、もう少し心を開放してもよいのかと思う。頑張らなくてもよい、を受け止めることが10年経った今、必要な復興政策であろう。
10年を前に2月末に訪れた宮城県気仙沼市や南三陸町は町が変わった。毎年訪れてはいるが、議論の末に完成した南三陸町の震災復興祈念公園は厳かな雰囲気のある公園となり、そこには志津川の町があった、ということをモニュメントで明示しているものの、住民の姿は消え、かつてののどかな漁港町を知っているだけの私でも、寂しさが先行するから、住民の思いはどれほどだろう。
私たちが、土地を追われた人たちの悔しさに何が出来るのかを考えてみたい。岩手でも、宮城でも、福島でも、自分が生まれ育った土地、作物を生み出してきた土地、そこから離れる無念は、そこで頑張ってきたからこそ、深い念となって、土地とともに自分の人生、自分の人生そのものがある、と思う方も少なくないと思う。
その思いが強ければ強いほど、土地がなくなったという絶望は続く。そんな方には社会が声をかけてみたい。もう十分頑張った、ありがとう、と。心に向き合うには10年はまだ通過点である。
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