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親の「困ったなあ」という言葉が子どもの心に与える大ダメージとは

もしあなたが親であれば、子どもに対して「困ったなあ」という言葉、気安く使ってはいないでしょうか。子ども相手にこの言葉を使う際には注意が必要だと説くのは、現役小学校教諭で無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者である松尾英明さん。角田光代さんの著書から気づきを得たという松尾さんは、「困る」や「怒る」ということの本質を考えながら、教育やしつけの指導力について説明しています。

「困る」の本質を考える

次の本からの気付き。

● 『何も持たず存在するということ角田光代 幻戯書房(2008)

『対岸の彼女』で直木賞を受賞するなどしている、大変著名な作家が10年以上前に出したエッセイ集である。気負わず読めて、とても面白い。

この本の中で「困る」というタイトルのエッセイがある。以下、一部引用する。

「私が困っている」ということと、「だれかが私を困らせている」というのは、必ずしもイコールで結ばれない。

これは、「困る」を「怒る」に置き換えても同じことだ。

ちなみに、電話で仕事の依頼が来たが、時間がないから断ったという時の話である。相手は「困りましたねえ」と大きくため息をついたという。それで「いけない、私はこの人を困らせている」と思い込み、引き受けてしまった。しかし電話を切った後で「なんか、違うじゃん!」と気付いたというお話である。

この文章がとても響いた。教育現場に限らず、あらゆる間違いの元凶はここである。

例えば、教室で「私」の言うことをきかない子どもがいて、困っているとする。「困っている」のは間違いなく担任である「私」である。しかし「その子が私を困らせている」というのは、真実か。その二つはイコールか。

これは残念ながら「否」である。私が困っていることと、相手が私を困らせていることは、イコールではない。困っていることの根本的原因は、私自身の捉え方の方である。それは、相手の行動のせいではない。

私が困っているから、相手に「言うことをきいてくれ」と頼んだり、あれこれ手をうつのは構わないのである。相手はそれで聞くようになるかもしれないし、聞かないかもしれない。しかしながら「私が困っているのはあなたのせいだ」と言うのは違う、ということである。

要望されている子どもの立場になって考えてみればよりわかる。子どもである「私」は、担任の先生に「あなたが言うことを聞かないのが困る」と言われた。しかし、子どもである「私」は自制心がきかず、言うことを聞けないでついはしゃいでしまう。自分は、相手を困らせる悪い子だと思う。

…これは、結構よくあることであり、かつ悲劇的である。確かに、言うことを聞いて欲しい相手と、聞けない自分の間は、ミスマッチである。

しかしながら、ここは折り合いをつけるしかない。担任の先生の側も、子どもの側も、それぞれ自分の100%を通せると思わないことである。離れて別々の空間にいられれば問題ないが、そうはいかないのだから、お互いの譲歩が必要である。そしてこの場合、子どもの側はやろうにも「できない」のだから、大人の側が大きく譲歩するしかない。

結局、学級経営における指導力云々というのは、このあたりの折り合いのつけ方にあるといえる。上手に折り合いをつけられる場合もあれば、そうでない時もあるというのが現実である。

「自己責任」も程度があり、相手の求める全てに応じるということではない。求められたとて、がんばってもできないことなど、責任を負えない部分があって当然である。

極端な話、足が不自由な人に「走れないのはあなたの責任だ。なぜ私の言うように走れないのだ」というような冷徹で非常識な人はまずいない。しかし、直接目に見えない部分だと気付かず、そういう無茶を言ってしまっていることは多々ある。

職場という見方で置き換えてもそうである。どうしても残業続きになってしまって困っている「私」がいるとする。しかしそれを職場のせいにするのは違う。職場が私に「残業しろ」と命令して困らせている訳ではない。残業せざるを得なくて困っているのは、あくまで私である。

逆もいえる。例えば「残業してもらっては困る」と雇い主の側が言う。しかし「残業して雇い主の私を困らせているのはあなたの責任だ」と従業員に言われても、それは違う。命令権限があるのならきっぱりと帰らせるべきだし、従業員が残業しないような手だてを打つのが雇い主の責務である。

要するに、自分の思い通りにいかない点を、お互い人のせいにしてはいけないということである。困っているなら、まず自分で自分をどうにかするよう工夫することである。お互いに事情がある。自分すら自分の思い通りにいかないのに、相手が自分の思うようにいくはずもない。

誤った夫婦の関係にもいえる。DV夫が「俺が暴力をふるうのはお前のせいなんだ」と泣くことがあるという。それで、妻の側は「この人が暴力をふるうのは私のせいなんだ」と自分を責める。

…傍から見れば全く非論理的なおかしな話だが、本人たちは本当にそうだと思い込んでいる。「私の怒り」=「あなたの責任」なのである。

そしてこれが、親子間でも起きるというのは、夫婦間以上に捨て置くことのできない事実である。子どもは、無力である。

まとめると、「困る」も「怒る」も、自分と対象とを結びつけないことである。それぞれの立場から見た、別個の話である。

内容的にはのほほんとしたエッセイなのだが、本質的なことに気付かされた次第である。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 松尾英明 【発行周期】 2日に1回ずつ発行します。

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