もうすぐ夏休みですね。子供たちにとっては楽しみで仕方がない反面、膨大な量の宿題に頭を抱える時期でもあります。そんな夏休みの宿題を「撤廃すべき」とするのは、現役小学校教諭で無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者である松尾英明さん。話題の教員免許更新制に関しても触れながら、夏休みの宿題を全廃させた方が良いとする理由を示しています。
不幸の根源を全廃する ~教員免許更新制と夏休みの宿題~
6月末のメルマガの「編集後記」でも書いたが、教員免許更新制が廃止の方向だという。これは現役の教員にとって、かなり大きなニュースである。
今回は、教員だけでなく子どもの活動も含めたムダな取り組みの廃止の大切さについて。
不要なことを減らせば、大切なことに時間を使える。当たり前の話である。
どんなことでも、やればやっただけ、何かしらの価値はある。免許更新講習の全てがムダだとは思っていない。しかしながら、今の現場にとって優先順位が高いか、やるべきかと考えた時、明確に「NO」である(これは「夏休みの宿題」とも通ずるところがあるので、後述する)。
免許更新制は、現場の人材確保の足枷になっているということで、廃止の方向である。メリットよりもデメリットが大きく際立った形である。
もはや、免許を出している場合ですらないのかもしれない。学校側は、猫の手も借りたいほどの人手不足という「売り手市場」である。各都道府県での教員採用試験の止まらない倍率低下も、顕著にそれを物語っている。
また、実習がどんな状況であれ、最低日数出席さえしていれば、大学側は免許を出さざるを得ないという実態がある。自分が現場で多数の実習生を見てきている分、その問題については間近で見ていて、他大学でも同じとのことなので間違いない。そんな現状の教員免許に、どれほど資格としての意味があるか疑問である。
免許を有意味にするには、免許交付の壁を高くする必要がある。単に講習さえ受ければ得られるような資格に大した意味はない。ある資格が有意味で価値があるとしたら、それはその取得の難易度の高さゆえである。
一方で、かねてより教員免許を国家資格に「格上げ」しようという動きもある。しかしながらこれは、現状の日本の制度上ではデメリットが大きすぎる。そこまでの取得苦労への正当な対価が得られないと予想されるからである。国家資格までとったのに、高給でもなく誰彼からも文句を言われ放題という立場に甘んじようという人は稀である。それでもそこを目指すような人は、元々免許に関係なくやる人である(逆にいえば、教員の立場や権限が今とは異なる社会になるのであれば、国家資格化に大きな意味が出る)。
要は現状、免許の壁を高くするだけ、人手不足を引き起こす結果になるだけである。その意味において、今回の免許更新制の廃止は、現場としては大歓迎してよい動きである。
話を冒頭に戻すと、再三述べている通り、学校は新しいことを始める前に、不要なものを捨てることの方が大切である。学校はもはや「過積載のトラック」である。積載率200%越えである。荷物の下の方には、もう完全に化石になったようなものも多く埋まっている。
学校には、かつては、大昔は必要だったものが溢れている。モノももちろんだが、仕組みや制度も同じかそれ以上にある。ずっと変わらない学習内容や形態もその一つであるし、夏休みの宿題もそれである。
現代は、教員が忙しいように、子どもたちも、ものすごく忙しいのである。見ると、子どもの日常も過積載で、遊ぶ暇さえないのである。
夏休みに一律に自由研究やポスター、読書感想文などを出させることは、現代の教育的に不要である。特に今の時代、やりたい子どもは個人の価値観と家庭の教育方針に沿って自発的にやる。それが本来の「夏休みの自由研究」の指す意味であるし、学校の目指す「学びに向かう人間性」の指すところである。
一昔前は、それができなかったのである。学校以外、教育情報にアクセスできないため、学校がやらないとチャンスロスとなっていたのである。ところが今や、個人でもネットで調べれば、いくらでも作品の募集を見つけられる。
またかつては、ドリルなども出さないと、一般の家庭では勉強する術がなかったのかもしれない。しかし、ネットで学べ、学習塾や家庭学習教材が全盛の現代において、どの地域でもそれが必要か。夏休みの一律のドリル学習は、過積載に更に載せて、子どもを潰す行為である(そもそも、ドリルを家庭でやらせて、苦手な子どもができるようになったという報告を聞いたことがない)。
夏休みの大量の宿題の最大の効果は「夏休み明けに学校に行きたくない」と思わせることである。不登校促進装置となっている面が否めない(実は教員側にとっても同じである)。
大人も子どもも、互いに無理をさせすぎなのである。「自分が苦しむからお前も苦しめ」という地獄的発想である。
今回の教員免許更新制の撤廃は、真面目に働いている現場教員として、諸手を挙げての大賛成である。先生に余裕ができて幸せになれば、結果的にそこに教わる子どもたちへプラスの影響が出る。当たり前の話である。
だったら、子どもにも幸せな子ども時代を過ごさせてあげていいのではないか。夏休みには、思い切り汗をかいて目いっぱい非日常の体験をして欲しいと願う。学校の勉強は、9月辺りからまた学校でがんばればいいのである(そもそも、夏休みにまで必死に取り組まなければならないような、そんなた大した内容を学校で教えていない。学校教育でつけるべき学力は、家庭ではなく学校でけりをつけるべきことである)。
また学校から夏休みの宿題が全く出ないのは、受験勉強をがんばりたい子どもにとってもいいことである。自分のやるべき課題に全神経を集中できる。そこに「なつやすみのきろく」のような無駄なものがあると、その完成に変なプレッシャーを感じてしまうのである(受験をするのにこれをきちんと書かないと不利になるのではないかとか、そういう変な心配をして完成度を上げる子もいる)。
慣例でやっているものを、いっそ全撤廃できないか考えてみる。それによって、人々が本当に幸せになるのではないかと考えてみる。これを機に、学校のあらゆる不要について、見直す良い機会にしていきたい。
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