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昭和の「視聴率100%男」欽ちゃんこと萩本欽一の不思議な“家族関係”

1970年代から80年代にかけ爆発的な人気を誇り、「視聴率100%男」との異名を取った萩本欽一さん。そんな昭和のお茶の間を虜にした日本を代表するコメディアンの資質は、お母様譲りだったようです。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、欽ちゃん自らが「芸の根本になるものを教えてもらった」と言う母親との心温まるエピソードの数々を紹介。さらに高校時代の萩本さんを悩みから救った、一風変わった父親の行動も披露しています。

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萩本欽一/コメディアン「言葉まで貧乏になってしまったつらかったとうが、言葉が心地いいオフクロだった」

都内のホテルでのインタビューだった。大御所なのに、実に目線の低い人という印象が残っている。瞬間に人との距離感を縮められる、それが彼の芸風なのだろう。それはコメディアンとしてたぐいまれな才能だと感じた。私も短時間に人との距離感を縮める自信はあるが、彼のように芸という域にははるかに及ばない。彼の番組に出演した素人のように、彼の前で私も心を解離して、話を聞いた覚えがある。(根岸康雄)

親父は週に1回、土曜日しか家に帰ってこなかった

オフクロは女学校出の箱入り娘だったらしい。学歴もない親父との結婚は親に反対されたようだね。

「でも、先方が熱心にいってくださっているのに、断ったら申し訳ない」

オフクロは情にほだされたのか、親父と所帯を持ったそうで。

上京した親父は終戦直後の混乱期に、カメラの製造販売を手掛けて大儲けして、浦和の洋館のような家に僕らは住んでいたの。

僕が物心付いたその当時から、親父は週に1回、土曜日しか家に帰ってこなかった。友達のお父ちゃんは毎日帰ってくるのに、うちのお父ちゃんだけ家に帰ってくるのは週1回、なんかヘンだなぁと。でもね、

「毎日仕事から帰ってくるようではダメです。週に1回ぐらいしか家に帰れない、本当の男の仕事はそのくらい大変なんです」

そんなことをオフクロに言われていて。

本当はいい加減な親父で、遊びが忙しくて家に帰らなかったんだけど。僕も小学1、2年生だったから、オフクロから聞かされた“立派な父親”を頭から信じていた。

うちの父ちゃんは人の3、4倍も働くすごく偉い人なんだと、親父の前では正座をするぐらい、僕は親父を尊敬していた。

でもね、ウソでもオフクロが僕に語って聞かせた立派な親父像は、振り返ると育っていくうえでは、僕にとってよかった気がしている。ダメな親父だと思って育つよりもね。

終戦から2、3年は親父も羽振りがよくて、家にはお手伝いさんもいて。生涯、和服姿を通したオフクロが、

「旦那様が帰宅されました。お食事の用意をしてください」

と、テキパキお手伝いさんに指示を出す姿が、まぶたに残っている。

勉強しろというオフクロではなかったけど、“あいうえお”は、小学校に入る前からきちんと教えらたれし、字については厳しいオフクロだった。

「字は人のために書く」

覚えたての字を書いていると、オフクロにそう諭された。字を汚く書いたり間違えると手をビシッと叩かれて。

母ちゃんさ、ある程度大人になって、その言葉の意味が分かりました。作文は先生が読む、社会に出て書類を書けば誰かがそれを読む、自分がかいた言葉を読む人がいる。汚い字や分かりにくい字を書くと、自分の言いたいことが相手に伝わらない。それは僕にとってもよくないし、他人に迷惑をかけることになると。そんな意味が込められていたんだよね。

オフクロには芸の根本になるものを教えてもらったような気がしている。

ある日、家の近くの小川の脇を歩いていたら、千円札が流れてきた。

「交番に届けましょう。このお札が間違えて川に流した人の手に戻れば、喜ばれるでしょう」

オフクロはニコニコしながら、そう言うとさらに言葉を続けた。

「そうだ、この千円札を家に持って帰って、硝子に貼って乾かして、きちんとアイロンをかけて交番に届けたら、落とした人をきっと倍も3倍も喜ばせることができるわ」

まず人を喜ばせることを考える、そして人を喜ばせるなら、倍も3倍も喜ばせろ!

母ちゃんさ、僕はこのとき、今に通じる基本を心底、学んだ気がしている。

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未だにアルバイト代はオフクロが貯金してくれていると

親父の会社が倒産したのは昭和20年代前半、僕が小学3年生の時で、僕ら家族は浦和の洋館から、親父の会社の事務所を兼ねて、東京の下谷の二軒長屋のような家に引っ越した。お手伝いさんもいなくなり、そこからが貧乏のはじまりだった。

新しもの好きの親父は「最新式だ、これは売れるぞ」とか、当時、ポケットカメラを作って失敗したりしていたけど。その後も親父のカメラ関係の新しい仕事は、失敗続きだったんでしょう。借金がかさんで下谷の家も売りに出して。僕ら家族が文京区の借家に移った頃は、親父に実入りがないから借金はかさみ、本当に貧乏になっていた。

中学2年のある日、知らないオジサンが訪ねてきてたことがあって。

「ごめんください」
「ちょっと欽一、いないと言っておくれ」

オフクロがそう言うもんだから、僕が玄関に出ていって、

「今、誰もいないんですけど…」

するとオジサンは「父ちゃんか、母ちゃんがいるだろう、ウソをつくな」と。

ウソをついてはダメとオフクロに教えられて育った僕が、玄関で怖そうな顔をしたオジサンを前に途方に暮れていると、オフクロが見かねて姿を現して。

「貸した分を払ってほしい」

おじさんは近所の商店の人で、月末払いを約束に味噌や醤油や日用品を借りていた。そりゃ払わない方が悪いんだけどね…。

「すみません、すみません…」

オフクロは玄関の板の間に、おでこをぶつけるぐらいにして何回も謝っていた。

──本当に金がねえんだなぁ…

玄関の横でそんなオフクロの姿を目にした僕は、泣けて泣けてさ…。

──お金がないとこんなつらい目に遭う。

悔しかった。オフクロが可愛そうだ、何とか僕がお金を稼ぎたいと思ったものだ。

人前で歌も歌えない上がり性の僕だけど、週刊誌を見ると芸能人はでかい家に住んでいる。二枚目スターは無理だけど、脇役のボードビリアンやコメディアンなら、僕もやれるんじゃないか。

中学を卒業して当時、浅草で人気だったデン助(大宮敏充)さんのところに「弟子にしてください」と訪ねていくと、「高校は出ておけよ」とアドバイスをされて。

「俺、高校に行く」

そう言ったら、オフクロは少し驚いた顔をしていたな。あの頃といえば、白いお米が食べられずに米粒がないおかゆばかりで、おかずはサンマの切り身が半分とか。オフクロは僕らが食べ終えたサンマの骨の間にちょっと残った身をほじくり、骨をしゃぶって。食事が終わった後のサンマの真っ白い骨は、ネコもよけるというぐらいだった。

学校に弁当を持っていけず、昼飯も抜きだった。高校では革靴を履く規則があったけど、革靴なんて買えない。何回も先生に注意されたから僕は新聞配達のアルバイトをはじめた。革靴はすぐに買えたが、

「欽一、アルバイトのお金を少し貸しておくれ」

そうオフクロに言われて。1,700円の高校の月謝は自分で払ったはずなんだけど、アルバイトで稼いだお金が一銭も残らなかった。多分、アルバイト代はオフクロが貯金をしてくれていると、僕は未だにどこかで思い込んでいる。

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何か言葉が心地いいオフクロだった

「欽一、ごめんね」

思い返すと、オフクロからよく聞いた、そんな言葉が残っている。

「修学旅行は俺、乗り物酔いするから行かないよ」
「お前はいい子だね、ごめんね」

新聞配達も冬の寒い日、朝早く起きて僕を起こしてくれて、配達から帰ると、オフクロは両手で僕の手を温めてくれて。

「本当だったらストーブがあればいいのに、ごめんね…」

って。

何か言葉が心地いいオフクロだった。言葉まで貧乏になってしまったら、本当に悲しかっただろうと今、そう思うね。

親父は借金をこさえて逃げちゃったが、親父の家にもよく遊びに行った。親父は僕らが「おばさん」と呼んでいた人と暮らしていて。要するにおばさんは親父の愛人なんだけど、どういうわけか、おばさんとは家族ぐるみの付き合いで。夏休みはおばさんと一緒に、上野動物園とかに遊びに行ったりしたもの。おばさんとは僕も仲良くしていたし、親父が他界した後も、親父の法事にはオフクロとおばさんが並んで座って。

「元気でやっていますか」

なんて、オフクロはおばさんに声をかけていた。

兄貴が言うには、オフクロは僕ら子供たちを育てるのが命がけで、父親に関しては、もうそっちでお好きなようにと言う心境だったんだろうと。

振り返ると、親父も時にはいいことを言った。高校時代、学校がイヤになった時があった。親父に向かってぽろっとそんな気持ちを言葉にすると、

「学校をやめて何がしたいんだ?」

と、親父に聞かれた。

「俺、好きな映画を観ていたい」

と、答えると、

「なら簡単だ」

親父は1,000円くれて、そのお金で僕は学校を休み、映画を観に行って。

「楽しかったか?」
「すげえ楽しかった」

親父だって金がないのに翌日も1,000円をくれた。さすがにそれが3日も続くと、映画を観るのが苦痛になってきた。

「いやいや欽一、とことんやったほうがいい」

また、1,000円くれようとする親父に僕は、

「もう勘弁してほしい、映画を観るもの辛いんだよ」

と、音をあげた。

「じゃ、どうするんだ?」
「学校に行かせてくれ」

すると親父はニヤッと笑って、

「映画は3日で飽きても、学校は飽きねえんだよ。なぜだか分かるか、学校には友達がいるからだ」

親父にそう教えてもらった。けっこうしゃれたところもある親父だったんだ。

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貧乏な萩本家の“解散“を兄貴がいい出したのは…

貧乏な萩本家の解散を兄貴がいい出したのは、僕が高校を卒業した時だった。弟は高校生だったが、みんな成長した。

「これからはそれぞれで生きていこう」

一家離散といえば悲惨さ以外にないと感じるだろうが、当時の僕の中に暗さは少しもなくて。むしろ、貧乏な家から解き放たれて、家族みんながそれぞれ幸せを捕まえに行くんだと前向きな気持ちで、兄貴の言葉を聞いた覚えがある。

僕は家を出た。僕はそのまま、浅草の劇場に入って以来10年──。

芸人として、僕は二郎さんとのめぐり会いが大きい。二郎さんが運を持ってきてくれたという思いが強いね。

再び家族全員が集まったのは10年後だった。上の兄貴は親父の借金を返して店を持ち、下の兄貴は商社マン、姉さんも結婚をして、弟は学校の先生になっていて。

不思議とみんなそれなりの幸せを手にしていた。

「親父、何をしているときが一番幸せなの?」
「そうだね、競馬をやっているときか」

親父がそう言うから毎週土曜日、僕は5万円の小遣いをあげたの。

晩年の親父は、夫婦で一緒に暮らしていたが、

「なんだか新婚のときみたいで、すごく幸せ」

なんて、オフクロはほおを赤らめていた。オフクロのその言葉を聞いて、なんか僕は感激したんだよねぇ。

誰にも恨みを持たない。98歳になった母ちゃんの生き方──。

芸人としての僕の資質は100%、オフクロ譲りですよ。

(ビッグコミックオリジナル2006年8月20日号掲載)

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image by: image_vulture / Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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【著者】 根岸康雄 【月額】 ¥385/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎月 第1木曜日・第2木曜日・第3木曜日・第4木曜日

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