MAG2 NEWS MENU

武将の城が次々倒壊。秀吉の「家康討伐計画」と自信を砕いた天正地震

先日掲載の「地震が変えた日本史。家康が江戸幕府を開けたのは『天正地震』で秀吉が家康を討てなくなったから?」では、江戸幕府の開府と天正地震の浅からぬ関係を解説した、時代小説作家の早見俊さん。今なお震央の位置も判明していないこの大地震は、秀吉や家康だけでなく、多くの戦国大名たちの運命を大きく左右するものでした。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では早見さんが、その被害の実態を詳しく紹介しています。

【関連】地震が変えた日本史。家康が江戸幕府を開けたのは「天正地震」で秀吉が家康を討てなくなったから?

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

天正大地震が産んだ徳川幕府「その一 地震の様子」

天正十三年(1585)十一月二十九日の夜十時頃、東海地方から北陸地方、近畿地方で推定マグニチュード8という大地震が発生しました。若狭湾沿岸の漁村を津波が呑み込んだという記録もあります。

寝静まった夜の十時、真っ暗闇の中で激震に襲われた人々の恐怖心は想像を絶します。上記日付は陰暦、陽暦では翌年の一月十八日に当たります。厳寒の真夜中、大勢の人々が命を落とし、路頭に迷い凍えたのでした。実際、被害状況が記録に残る各地で大雪だったと記述されています。

時は安土桃山時代、羽柴秀吉(豊臣姓を下賜されるのは翌年)による天下統一が進められる最中の大災害でした。

では、地震が発生した時、秀吉は何処で何をしていたのでしょう。

秀吉は近江坂本城に滞在していました。坂本城は近江国滋賀郡、琵琶湖の南西にあり、明智光秀が築城して居城としていました。光秀滅亡の際に焼失しましたが、丹羽長秀によって再建され、この頃は豊臣政権の五奉行の一人となる浅野長政が城主です。

秀吉が長浜城にいたのは、翌年の一月に実施を計画していた徳川家康征討の準備のためでした。家康の領国三河に攻め込むため、秀吉は美濃、近江の諸大名に兵糧、軍備を調ええさせており、その検分のために立ち寄っていたのです。坂本城の前は美濃大垣城を訪れています。大垣城には征討軍の兵糧となる大量の米を蓄えさせていました。

秀吉は四カ月前の七月十一日、関白に任官しています。紀州の雑賀、根来、四国の長曾我部元親、越中の佐々成政を降し、いよいよ家康を討ち平らげようと万全を期していたのでした。前年、秀吉は小牧長久手の合戦で織田信雄と連合した家康と対決しました。その際、軍勢の数で劣る家康は秀吉の勢力範囲にある領国を包囲すべく雑賀、根来、長曾我部、佐々らに協力を働きかけていました。秀吉は信雄、家康と和睦、休戦した後、上記敵対勢力を各個撃破したのです。

その上で秀吉は家康討伐を自信満々に公言します。農民の子が位人臣を極め、敵対勢力を次々と降し、怖いものがいなくなったのでしょう。大垣城を検分し、家康討伐の準備が着々と進んでいると満足した秀吉は坂本城に立ち寄りました。築城主であった明智光秀を秀吉が討ったのは三年前、主人織田信長の弔い合戦に勝利して、大きく運が開けました。

地震が起きた時、秀吉は坂本城の寝所で家康との合戦に勝利する夢を見ていたのかもしれません。

「将軍には成り損ねてまったが、わしは将軍よりもえりゃあ関白に成ったがや。どえりゃあことだで。なあ、光秀、おまはんもわしがえりゃあこと、ようわかったな」

明智光秀に自慢をしたのではないでしょうか。日本国始まって以来、自分以上に成功した者はいない、と誇らしさで胸が一杯だったに違いありません。前途に微塵の不安もなく秀吉は安眠を貪っていたのだと思います。

ところで、大地震の予兆はありました。七月五日、京都、大坂、伊勢、三河で大きな地震があったことが家康の家臣、松平家忠の日記に記されています。迷信深い人々ならば、その直後に行われた秀吉の関白任官と絡めてこの地震を語っていたのかもしれません。たとえば、出自卑しい者が関白になることを天は怒っているのだ、などと好き勝手に噂していたのではないでしょうか。

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

それはともかく、天地も揺るがす大地震にさすがの天下人も慌てふためきました。その半生において、常人ならばとても乗り越えられない数々の難題を克服してきた秀吉が、信長横死の報を受け全軍崩壊してもおかしくはない中、鮮やかな大返しで光秀を討った秀吉が、恥も外聞もなく馬を乗り継いで大坂に戻ったのでした。坂本より大坂の方が安全だという根拠はありませんが、秀吉は堅固な大坂城に安全、安心を求めたのです。

ひょっとして、明智光秀の亡霊を見たのでしょうか。光秀の亡霊に取り憑かれてなるものか、と必死で逃走したとしたら滑稽です。光秀の怨霊を嫌ったのか、秀吉は地震で倒壊した坂本城を廃城にしました。浅野長政に命じて大津城を建てさせ、坂本城の資材を移築します。

大坂への帰途の道々、秀吉は悲惨な状況を目の当たりにしたでしょうが、何を置いても我が身大事とばかり、脇目も振らず大坂へひた走りました。

もちろん、被害を受けたのは坂本城ばかりではありません。秀吉の居城であった近江長浜城、越中木舟城は倒壊、美濃大垣城は倒壊後に全焼、京都では多数の伽藍が損傷しました。家康との合戦に勝利を確信した直後、秀吉の自信は天正大地震によって大きく揺らいだのです。

では、代表的な被害実態を記してゆきます。

まず、越中木舟城です。

木舟城は現在の富山県高岡市にありました。越中は佐々成政が支配していましたが、この年の八月、秀吉は十万を超える大軍を率いて成政の居城、富山城を囲みます。成政は降伏、秀吉は新川郡以外の領地は召し上げたものの、成政の命は助けます。剃髪した成政は大坂城で秀吉の話し相手、御伽衆に加えられました。秀吉には織田家の朋輩であった成政に多少の遠慮があったのかもしれません。

越中は前田利家に与えられ、砺波郡にあった木舟城は利家の末弟秀継が城主となります。秀継入城後、大地震の前触れのような地震が相次いで起きました。木舟城は軍事上の要衝とはいえ、脆弱な地盤に築かれていたようです。天正大地震が木舟城を襲ったのは秀継が城主となって三か月後、城は倒壊して秀継は妻と共に圧死しました。息子利秀が生き残ったのが不幸中の幸いです。木舟城は廃城となり、城下の民は近隣の高岡に移住します。

利家は兄弟の中で秀継とは特に仲が良く、秀継の死を深く悲しんだと伝えられています。秀継は武将としても優秀で、佐々成政との合戦でも前線に立って奮闘し、秀吉から賞賛されました。秀継の死は前田家には大きな損失でした。

次に近江長浜城です。

当時、長浜城は山内一豊が城主でした。

一豊は秀吉が木下藤吉郎であった頃から傘下に加わって各地を転戦、度々武功を挙げ、二万石の領主として長浜城の主となっていたのです。かつての自分の居城を与えたことから、秀吉の一豊への信頼が窺えます。きたるべき家康討伐にも大いなる活躍が期待されていました。

地震発生時、一豊は京都に出向いていて不在でした。主のいない長浜城を悲劇が見舞います。一豊夫妻の娘、与禰が圧死してしまったのです。

地震で崩壊した城内を山内家の家老五島為重が見て回りました。真っ暗闇の中、倒壊した御殿から一豊の妻、千代に声をかけられます。千代は与禰が無事かと心配していたのです。まだ与禰の生死を確かめられない状況にあったのですが、五島は千代を落ち着かせようと無事だと答え、安全な場所へと避難させました。城は壊れ、城下では火災が起き、余震も続いているとあってぐずぐずはしてはいらない、と五島は判断し、まずは千代の身を守ろうとしたのです。

千代の安全を確保した上で、五島は与禰の寝所へ向かいました。すると、哀れ与禰は乳母と共に棟木の下敷きとなって息絶えていました。数え六つ、可愛い盛りの夭折です。一豊夫妻には目に入れても痛くない愛娘であったことでしょう。しかも、夫妻にとって与禰はたった一人の実子でした。以後夫妻は子宝に恵まれず、一豊は弟康豊の子、忠義を養子に迎えて山内家を存続させます。もちろん、犠牲になったのは与禰と乳母だけではありません。五島と同じく、山内家の家老乾和信は与禰を助けようとして妻と共に圧死、他にも数十人の家臣が命を落としました。

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

城下の被害も悲惨を極めます。ルイス・フロイスの記録によると地面が割れて数多の家や人々が呑み込まれ、そうでない家屋は火災によって焼失したそうです。

さて、山内一豊といえば、妻の千代が良妻の鑑とされてきました。馬買いのエピソードは有名ですね。ご存じの読者も多いと存じますが、念のために記します。

ある日、安土の城下で名馬が売られていました。惚れ惚れするような馬で織田家の家臣たち垂涎の的となります。しかしながら、当然買値は桁違い、黄金十両でした。家臣たちはあまりの高値に二の足を踏みます。

一豊は秀吉に従って播磨平定で功を挙げていましたが、十両の馬を買える甲斐性はなく、指を咥えて眺めるしかありませんでした。それでも、名馬のことが頭を離れず、自邸で欲しいのに買えない、と千代にこぼします。夫の嘆きを聞いた千代は鏡箱に仕舞ってあった十両を差し出しました。それは、ここぞという時に使え、と実家が持たせてくれた大事なお金でした。

一豊は感謝して名馬を購入、織田家中で評判を呼び信長の耳に届きます。馬好きの信長は一豊に目をかけ、出世のきっかけとなった、という良妻物語です。物語の結末には別バージョンがあり、一豊はこの馬で信長が主催した馬揃えに参加、信長の目に留まった、というものです。いずれにしても、ここぞという時に使えと託された千代のお金のお陰で名馬が買え、それが出世のきっかけとなった開運物語です。

筆者は小学生の頃、NHK大河ドラマ、『国盗り物語』でこのエピソードを東野英心の山内一豊、樫山文枝の千代によって演じられたのを覚えています。子供心に良い奥さんだなあ、あんな女性と結婚できたらなあ、と思ったものです。名馬を買った時期、一豊は秀吉配下の将として頭角を現しており、名馬を買わなくても鑓働きで出世していただろう、とへそ曲がりの筆者は邪推し、馬買いの物語の信憑性を疑っています。

物語の真偽はともかく、千代が良妻であったのは確かなのでしょう。良妻ぶりを馬買いのエピソードに託して伝えられてきたのだと思います。馬を買うお金を仕舞ってあったのは鏡箱、良妻の鑑を象徴しているような気もしますね。そんな千代が良妻であっても賢母にはなれなかったのは気の毒です。天正大地震は千代から娘を奪い、賢母への道を閉ざしてしまったのです。

以下、次号へ続く。

次週は愛娘を失った山内家の希望から語ります。

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

image by: Pumidol / Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

1961年岐阜県岐阜市に生まれる。法政大学経営学部卒。会社員の頃から小説を執筆、2007年より文筆業に専念し時代小説を中心に著作は二百冊を超える。歴史時代家集団、「操觚の会」に所属。「居眠り同心影御用」(二見時代小説文庫)「佃島用心棒日誌」(角川文庫)で第六回歴史時代作家クラブシリーズ賞受賞、「うつけ世に立つ 岐阜信長譜」(徳間書店)が第23回中山義秀文学賞の最終候補となる。現代物にも活動の幅を広げ、「覆面刑事貫太郎」(実業之日本社文庫)「労働Gメン草薙満」(徳間文庫)「D6犯罪予防捜査チーム」(光文社文庫)を上梓。ビジネス本も手がけ、「人生!逆転図鑑」(秀和システム)を2020年11月に刊行。 日本文藝家協会評議員、歴史時代作家集団 操弧の会 副長、三浦誠衛流居合道四段。 「このミステリーがすごい」(宝島社)に、ミステリー中毒の時代小説家と名乗って投票している。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料お試し登録はこちらから  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」 』

【著者】 早見俊 【月額】 ¥440/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎週 金曜日 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け