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学生時代にコミュ力の高かった人が社会に出てしくじりがちなワケ

今やその高低が人物を評価する大きな物差しとなっているのが、コミュニケーション能力。しかしこの能力が2種類に分けられることをご存知でしょうか。今回のメルマガ『尾原のアフターデジタル時代の成長論』では、Google、マッキンゼー、リクルート、楽天の執行役員などを経て、現在はIT批評家として活躍されている尾原和啓さんが、「学生時代」と「社会人」それぞれのコミュニケーション能力の違いを解説。さらに現在の教育制度では身につけることが困難な、「社会人のコミュニケーション能力」の使い方をレクチャーしています。

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【知らないと損する】2種類のコミュ力の違いを解説

今日は「コミュ力って何だろう?」という話をしたいと思います。実はコミュニケーション能力には2種類あって、この2種類を勘違いしがちなので気を付けておくといいよ、というお話です。

これを考えたきっかけは、最近あった東大刺傷事件で「男子生徒は医学部進学実績全国ナンバーワンの高校生だった」というお話です。この時期にケガをされたり心の不安を背負ったりした方に関しては、本当に大変だったと思います。その一方で、1人の学生がやったことを「エリート教育の闇」というように、学校の名前を晒して学校のこととして議論するのは、個人的にいかがなものかなと思っています。

そう思いながら友人と話していて、本質的な話の1つに「エリート校に通っている人たちは、視野が狭くなったり思い込みが激しくなったりして、それがくじかれるとおかしな方向に行く」思想背景があるのではないかという話になりました。話をする中で、ものすごくいい議論が1年前のQuora(クオラ)というQ&Aサイトにあったのを思い出し、みなさんにシェアしたいなと思ったのですね。

クオラの議論の中に、世の中の“なんとなくの言説”がありました。それは「高学歴でコミュ力が高く、学生時代はうまくいってた人が社会人になって失敗するみたいなのをよくネットで見るのですが、ほんとにそんなことあるのでしょうか?底辺の嫉妬では?」という質問です。

それに対する回答がすばらしいのですよ。「コミュニケーション能力の定義は学生と社会人で違うところがあるから、それが原因なんだよ」という話なんですね。

今からお伝えするコミュニケーション能力の話は、先ほどの東大刺傷事件の「学校のせいじゃないか?」という話ではありません。あくまでも、「なぜ世の中で学生時代にコミュニケーション能力が高かった人たちが社会人になった時にうまくいかなかったか?」という一般論と、そこに基づいてなぜかおかしな偏見が生まれてしまうという話です。

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2種類のコミュ力の違いと、その使い方

学生と社会人のコミュニケーション能力は何が違うのでしょうか?

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学生時代のコミュニケーション能力…まったく同じような同質性の高い仲間の中で話が盛り上がること

社会人のコミュニケーション能力…異質な人とたくさん出会う中で、異質な人とコミュニケーションをしていくこと

これが、同じコミュ力が高いと言っても全然違うという話です。

つまり、高校って過ごしている時間が圧倒的に長いし、高校時代までって(今はネットがあるのでだいぶ変わってきていますが)外の人とはあまり付き合わないで、同じような環境の中で過ごす時間が長いわけですよね。だからその中でコミュニケーション能力が高いというのは、みんなが共有していることをすべて知っていてそこをいじれることや、「それってあるよね」ってことを前提条件として先回りできることです。同じことを知っているから、そこをずらせる。そこを知った上で一歩先を行けることが、コミュニケーション能力が高いことになるわけですよ。

学生時代によくある話としては、先生のクセの話とか「仲間がこういうことをやったよね」みたいな話です。こういうことは、“同じようなことを見て同じようなことを考える仲間の中から起こること”へのコミュニケーション能力の高さです。

社会人になると圧倒的に変わるのが、今まで前提や背景をまったく共有していなかった人と出会いコミュニケーションをしていくことです。その際のコミュニケーションにおいて大事なことは、自分の前提条件を相手に押し付けないことなんですよね。しゃべっている時に相手がどこまでわかっていて、どこからがわかっていないかを探りながら話す。そして前提条件がわかっていない人には、わかりやすく説明したり相手がわかっている前提条件の話に振っていったりします。

前提条件がわかっていないことを話すと、たくさん説明しなきゃいけないから会話が遅くなります。なので、共通の前提条件を持っているところに関しては会話のテンポを上げて加速していく。相手の前提条件が違うところがわかったらテンポをゆっくりにし、さりげなく自分の持っている知識を共有しながら進めていく。このアクセルとブレーキを調整してやっていく必要性があるわけです。

こういった能力は、今の教育制度で同質性の高いものの中で正解主義と言われるテストの○×だけをやっていると、見えなくなってしまいます。同質の中で盛り上がる力には突き抜ける力(オタク力)があって、これはこれでめちゃくちゃ大事ですが、異質な人と会話をする時にはオタク力がどこまでうまくいくのかを探りながら、横を広くしていく。

同質に対するコミュ力の高さと異質に対するコミュ力の高さは別次元なので、「自分はどちらがどう強いんだろう?」と考えながら、自分の強みを活かすようにコミュニケーションをしていく。「相手の同質性に対するコミュ力の高さと異質性に対するコミュ力の高さはどんな感じなのか?」を考えていると、相手に対してもやさしくなれるということなんですよね。

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マスコミに振り回されないための話

もう一度話を戻すと、だれか1人に何かがあった時に、同質性の議論をして幅を広げていくことがメディアとしておいしいのはわかります。ですが個人的には嫌だなと思います。なので、こういったニュースを見るたびに「そもそもこういうニュースが起きてしまう構造って何なんだろう?」「その構造のずれって何なんだろう?」「構造のずれって、もしかしたら同質性のコミュニケーションと異質性のコミュニケーションをわけて考えないことから起こってしまうのではないかな?」と考える。

最近よくあるのは、事件が起こったあとに起きてしまう風評被害ですよね。人の中のいろんな思い込みやバイアスを利用すると、メディアとしてはページビューが稼げるから、それを助長することが増えてきちゃっています。事件そのものを反省しつつ、事件が終わったあとの風評の広がりを冷静に受け止める。それをどう自分へのプラスに変えてまわりにやさしくするかを考えていく上で、コミュ力が2つある話はすごく大事だと思います。

クオラがすばらしいのが、(僕がめちゃくちゃ好きなマンガ)『ザ・ファブル』で主人公が言った「山で経験する事は正反対の街でも似たような応用が効くということ」「でもなぜか街での経験は山ではほとんど通用しない事が多い」というコマの引用で、このコマがすごいんですよね

つまり山での経験というのは、多様な生物・植物がいる環境の中で起こる、いろんなトラブルを対処すること。街での経験というのは、同質性の中で同質性の歪みの中で起こっていること。だから街のことは山では適応できないけど、山で経験したことは街で経験できるということです。

さいごに

異質なものとのコミュニケーション能力と言った時に、オンラインサロンは僕の場合「つながる未来を信じたいという同質性」と、「それぞれみなさんが持っているバックグラウンドの多様性」という2種類があるので、ぜひ両方楽しんでいただければと思います。

というわけで、つながる時代の未来を楽しみましょう。じゃあね。

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image by: Shutterstock.com

『尾原のアフターデジタル時代のモチベーション革命』

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