ロシアの「北海道侵略」はありうるのか?ウクライナの“二の舞い”説を検証

 

その後、1991年にはソ連は崩壊、ルーブルは紙屑となって、極端なまでに経済が低迷しました。この時期には、例えばエリツィンなどは、日本に対して低姿勢でしたが、日本はこの好機を活かすことはできませんでした。

そんな中で、例えば、2008年から2012年までロシアの大統領になったドミトリ・メドベージェフは、「北方領土政策」を強化、大統領自身による国後島視察、閣僚級の視察などを繰り返したのでした。これは推測ですが、プーチンの「代行」として大統領を4年やらねばならない中で、彼なりに求心力を強化するには、領土ナショナリズムが「手っ取り早い」と考えたのだと思われます。

これに対しては、当時の民主党の菅直人政権は、「暴挙」という言葉を使って非難、これにメドベージェフは猛反発を見せる中で、民主党対メドベージェフの日ロ外交が進行したのでした。

結果的に、この時期の日ロ交渉は、全くの失敗でした。ちなみに、この時点では、日ソ国交回復から50年以上が経過していましたが、この間の日本の対ソ連、対ロシア外交の大前提としてあったのは「歯舞・色丹の二島」については、ロシアは「いつでも返してくれる」という理解でした。

この「二島ならいつでもオーケー」という前提は、1956年の鳩山一郎の日ソ共同宣言に「二島返還で平和条約」という形でハッキリとうたわれていました。その延長で、鳩山一郎とその孫である由紀夫などの路線、更に漁業権などでロシアとの実務的なチャネルを切れない鈴木宗男などの路線としては、「二島先行返還論」で、両国の関係を安定させたいという方向で動いていたのでした。

これに対して「四島返還」を大前提とすることで平和条約を先送りする、あるいは裏返して言えば、平和条約を先送りすることで四島返還の可能性を消さないというのが、自民党政権のこの問題に関する骨格であったように見えました。恐らくは、福田赳夫に始まる清和会の流れの中で、この「二島先行はさせない」というポジションが政治的な力学の中で、派閥の継承事項になっていたようです。

それはともかく、この時期のメドベージェフは、プーチン復活後には首相として、国後や択捉を訪問するなど、南千島におけるロシアの実効支配に関する示威行動を繰り返して、日本の期待を粉々に砕いたのでした。

そんな中で、2013年になると第二次安倍政権が安定してくる中で、日本とロシアの外交が活発になって行きました。森喜朗が特使としてプーチン大統領との会談まで行われ、もしかしたら北方四島の帰属問題に関して大きな進展もあるとされ、具体的には、プーチン大統領は「双方が受け入れられる均等な案」を主張しているなどという説も流れたのでした。ですが、この時もロクな成果にはなりませんでした。

更に安倍政権が続く中で、2014年のソチ五輪に際しては、開会式の首脳外交で安倍=プーチン会談が行われました。その後、2016年の5月に安倍首相はロシアのソチを訪問し、プーチン大統領との首脳会談に臨み、プーチンの訪日を引っ張り出して、交渉は成功と言われました。

その約束通りその年の12月にはプーチンは来日して、山口県長門市で再び、安倍=プーチン会談が行われましたが、結局はこの会談をもって「2島すら戻ることはない」ということが宣言されて、領土外交は大きく挫折した格好となったのです。

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