日本政府が一線を越え、ロシアから「敵」と認定された以上、そして、彼の国と日本の間では第二次大戦後の平和条約すら結ばれていない以上、もしこの先、戦火が拡大したり、ネオコンの戦略が功を奏してプーチン大統領が追い詰められたりした場合、(あるいは、日本の一部?メディアが言うようにプーチン大統領がマジで狂っていた場合)、日本という国は手頃なスケープゴート(scapegoat:贖罪の山羊)として血祭りに上げられるかもしれません。
というのも、あまりに条件が揃い過ぎているのです。まず、全面的な第三次世界大戦に発展して人類が全滅するという悲劇を避けるために、世界の影の支配者たちは、どこかの地域を限定的なスケープゴートにする可能性があります。
たとえば、ロシアのいずれかの都市一か所に対して、西側の主要都市一か所に原爆が投下されるといった具合です。上手くすれば、これで、「双方痛み分け」となり、「手打ち」に持ち込めるかもしれません。問題は、どこが選ばれるかです。
西側で国連の「敵国条項」の対象となっているのはドイツ、イタリア、日本です。おそらく、この中から「スケープゴート」が選ばれると考えて良いでしょう。そして、かつて、ヨーロッパ諸国に向けて、「欧州共通の家」構想をぶち上げていたロシアが、ベルリンやローマを廃墟にするとは思えません。となると……。
消去法で考えれば分かることです。岸田首相や林外務大臣は、ネオコンにそそのかされてクマの尾(短いけど)を踏む前に、こうした最悪のシナリオを考慮したのでしょうか?
とにかく「後悔先に立たず」、今更、クマを踏んづけた後になってから繰り言を言っても仕方ありません。こうなった以上、「一期一会」の覚悟を持って、毎日を精一杯生きるしかなさそうです。私たちの平和な日常は、まさに「薄氷」の上にあります。
不思議なもので、一旦、覚悟を決めると、日常の何気ない事象や人々が美しく、愛おしく感じられるようになります。庭に咲いた小さなバラの花がいかに美しく健気なことか。散策路に広がる新緑の何と清々しく、気持ちの良いことか。家族の些細な諍(いさか)いまでもが可愛らしく感じられるのです。
明日はどうなるか分かりませんが、少なくとも今日一日、このように生かされていることが奇跡のようにも感じられ、感謝せずにはいられないのです。
とは申しますものの、私は、希望を捨てたわけではありません。毎日、孫たちの世代が平和のうちに生活できるよう祈ってもいるのです。もちろん、そのために何ができるのかも、考えています。
そして、長年の経験から、ヒステリックに大声を出したり、誰かを呪ったりすることが、状況をさらに悪化させるということも心得ています。憎悪の中から平和は生まれません。立場を越え、穏やかに本音で語り合うことが必要です。
聖徳太子がおっしゃった「和を以て貴しとなす」というのがこれかもしれません。太子は、互いに打ち解け、胸襟を開いて、腹蔵なく話し合うことを大切にしたのです。
歴史の流れを変えられるレベルにまで、ある種の「良識」を拡げるためには、私たちの一人一人が自分の「持ち場」をしっかり守りながら、まずは、自分たちのコミュニティーの状態を平和志向、未来志向にチューニングする、そんな地道な戦略の方がかえって早道なのかもしれません。
image by:Free Wind 2014/Shutterstock.com