『新選組!』『真田丸』に続き三谷幸喜氏の大河ドラマ脚本3作目で、SNS上でも盛り上がりを見せている『鎌倉殿の13人』。その舞台・鎌倉は、幕府成立以来三度も大震災に見舞われたといいます。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では早見さんが、中でも「永仁鎌倉地震」が鎌倉時代を象徴する地震であったとしてその理由を解説。さらに江戸時代には武士の鏡とまで言われた鎌倉武士の真の姿を紹介しています。
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永仁鎌倉地震 権謀の府の屋台骨を揺るがした大地震
NHK大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』を視聴している読者も多いでしょう。ご存じにように鎌倉は源頼朝が本拠とした日本最初の武家政権、鎌倉幕府の本拠地ですが、勇猛果敢な鎌倉武士に守られようと地震が起きることに変わりはありません。
3週に亘って文治地震を紹介しました。文治地震は平家滅亡後の京の都や畿内に甚大な被害を及ぼし、平家に代わって源頼朝を担いだ鎌倉武士団が復旧に担い手となります。平家という巨大権力が滅亡し、治安が悪化して復旧活動も進まなかった被災地域でしたが、後白河法皇の許可を得て置かれた守護・地頭によって改善されてゆきました。以前は頼朝の征夷大将軍任官を以って鎌倉幕府成立と見なされていましたが、昨今では守護・地頭の設置が鎌倉幕府成立の時だとされています。
中学、高校の歴史の授業で頼朝への将軍宣下、1192年を、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と語呂合わせで覚えたのが、守護・地頭の設置、1185年、「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という具合に語呂合わせも変わっています。
鎌倉幕府は文治地震を奇貨として出来上がったとも言えるのです。
そんな鎌倉を襲った大地震、そして鎌倉時代を象徴する、「鎌倉永仁地震」を紹介致します。
鎌倉幕府成立以来、鎌倉は三度大きな地震に襲われました。仁治2年(1241)推定マグニチュード7の地震が発生、津波が由比ガ浜を襲います。次に正嘉元年(1257)推定マグニチュード7.5の内陸地震が起き、鎌倉ばかりか南関東に大きな被害をもたらしました。
そして永仁鎌倉地震です。正応6年(1293)4月13日、新暦では5月27日、推定マグニチュード8の巨大地震が鎌倉を直撃しました。以前紹介しました元禄関東大地震や関東大震災と同じく相模トラフのプレート型の巨大地震と推察されています。鎌倉を代表する寺院、建長寺をはじめ多くの建物が倒壊し、2万3,000人を超す死者が出たと記録されました。
永仁鎌倉地震を鎌倉時代を象徴する地震と記しましたのは、地震の規模と被害状況が最大だからという理由だけではありません。この地震をきっかけに政変が起きたからです。鎌倉は御家人たちによる権力闘争、政変に明け暮れました。永仁鎌倉地震は権謀の都、鎌倉を象徴する災害なのです。
陰謀を巡らし政敵を陥れて葬り去る、平安貴族が得意としていました。言っていることと腹の中は別、親切面をして陰で足を引っ張る、いかにもお公家さんらしい処世術です。お公家さんとは正反対、正々堂々と武力で勝負を決するのが武家というイメージがあると思います。
源平合戦の頃、名のある武士は馬上で名乗りを挙げ、先祖代々の武功を語り、「いざ、尋常に勝負、勝負!」と一騎討ちを挑み、敵もそれに応じました。最後の武家の世である江戸時代にあって、鎌倉武士は武士の鑑とされていました。
勇壮華麗な大鎧という外観に加え、潔い一騎討ちこそ武士のあるべき姿だと憧れを抱いたのでしょう。天下泰平、戦とは無縁の時代を生きた江戸時代の武士は軍記物の草双紙や錦絵、人形浄瑠璃、歌舞伎などで源平合戦を見聞きし、そこに武士の理想像を見たに違いありません。
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ところが、武士の鑑たる鎌倉武士の本拠、鎌倉においても魑魅魍魎が跋扈する平安京同様、いや、平安京以上の陰湿な政争が繰り広げられたのです。
『鎌倉殿の13人』とは源頼朝死後、鎌倉幕府を担った有力御家人13人を指します。ドラマの主人公は北条義時、頼朝の正室政子の弟で鎌倉幕府二代執権です。小栗旬さんが演じる若き日の義時は正義感の強い好青年ですが、頼朝死後、御家人同士で繰り広げられた熾烈な権力闘争を勝ち抜き、鎌倉幕府最大の実力者となりました。
政敵ばかりか頼朝の子、二代将軍頼家、三代将軍実朝暗殺の黒幕視されるように陰謀、謀略の限りを尽くします。筆者が高校3年の時の大河ドラマ、『草燃える』でも頼朝死後の鎌倉が描かれていました。
義時を演じたのは若き日の松平健さん、青年時代は今回のように爽やかで純情な青年でした。日本史の授業で実際の義時の行いを学んだ時、女子生徒が信じられない、と驚いていました。純情青年が権力の権化となり、冷酷非情に政敵を葬っていったことに驚きと幻滅を抱いたようです。
ただ、義時は権力の亡者となって私腹を肥やしていたばかりではありません。鎌倉幕府を敵視し、勢力弱体化を狙った後鳥羽上皇から追討の院宣を下されながら、逆に後鳥羽上皇に打ち勝ち、隠岐の島に配流しました。武家が上皇を島流しにしたのです。この承久の乱以降、鎌倉幕府の権威は一層高まりました。
義時は武家政権を確立した功労者でもありました。
義時以降も北条氏は邪魔者を陰謀で滅ぼし、鎌倉幕府を牛耳り続けます。永仁鎌倉地震は北条氏陰謀の歴史と切っても切れない関係にあります。陰謀に長けた権力者は地震さえも政争に利用したのでした。
永仁鎌倉地震が起きたのは二度目の蒙古襲来があった弘安4年(1281)から12年後です。鎌倉幕府は蒙古勢を撃退したものの、暮らしに困窮する御家人たちは珍しくありませんでした。日本を防衛する合戦であった為、手柄を立てても与えられる領地はなく、何時来襲するともわからない蒙古勢への備えに莫大な出費がかかったからです。
朝廷はひたすら蒙古勢降伏の祈祷を行いました。亀山上皇は石清水八幡宮、加茂神社、北野天満宮を戦勝祈願に訪れ、諸寺、神社にも蒙古降伏の祈祷を命じました。暴風雨によって蒙古勢の船団が海の藻屑となると、亀山上皇も朝廷も神風が蒙古を撃退した、と喜びました。上皇も公家たちも鎌倉武士団の奮闘よりも、祈祷によって起きた神風が蒙古に打ち勝ったと考えました。
命懸けで戦った武士たちが報われませんね。
三度目の蒙古襲来への恐怖、困窮する武士たちの暮らしが続く中、優れたリーダーであった執権北条時宗が急死しました。享年34の若さでした。時宗は北条惣領家の当主を意味する得宗でした。鎌倉時代を通じて9人の得宗が存在します。
時政、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9人です。ところが、この9人の内、時政、義時、泰時つまり三代までの得宗を除き、時氏以降は20代、30代の若さで死んでいます。最後の高時は鎌倉幕府滅亡時の得宗ですから切腹して果てたのですが、他は病死です。病弱な家系であったと考えられますが、毒殺の噂が死亡時からありました。
真偽は不明ですが、鎌倉幕府の最高実両者に毒殺の噂がまとわりつくのは、鎌倉が陰謀術数渦巻く魔都であったことを意味します。とても武士の鑑が主催した質実剛健、健全な都ではなかったことを物語っていますね。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年5月13日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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