豊臣秀吉が隠居したと言われる伏見城。秀吉の力を象徴するように、絢爛豪華なお城だったとして知られていますが、その最後は地獄絵図だったそうです。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、伏見城を廃墟にした慶長伏見地震と『豊臣』という姓について詳しく解説しています。
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秀吉の天下倒壊 慶長伏見地震で廃墟と化した伏見城
伏見城は秀吉の隠居城として普請されました。実子に恵まれなかった秀吉は甥の秀次を養子に迎え、関白職と政務の中心である聚楽第を譲ります。秀吉は伏見に一旦は隠居したのです。
摂政、関白を引退し、子供が摂政、関白に成った者を太閤と呼び、以後秀吉は太閤殿下と尊称されます。
秀吉以外にも太閤と呼ばれた者は存在するのですが、太閤といえば秀吉がイメージされます。大師といえば弘法大師を指す為、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪われる」とも語られてきました。
ご存じの読者も多いと存じますが、江戸時代、人形浄瑠璃、歌舞伎などでは、「太閤記」ではなく、「太功記」として上演されました。
作中、秀吉は、「羽柴秀吉」ではなく、「真柴久吉」、「織田信長」ではなく、「小田春長」、「明智光秀」ではなく、「武智光秀」と名前を変えています。
江戸時代を通じて秀吉は人気があり、信長は不人気でした。本能寺の変の原因も、信長の光秀に対するパワハラとして描かれます。暴君信長の虐待に耐えかねて立ち上がる光秀という構図でした。
お芝居の、「太功記」は秀吉ではなく光秀が主人公で、光秀が信長を討ってから秀吉に敗死するまでを描いています。
世にいう光秀の三日天下を描いた作品で、今日では十段目、尼ケ崎閑居の段が、「太十」と称されて上演されます。
また、太閤というと、貧しい境遇から身を起こし大成功した立志伝中の人物を、「今太閤」と呼びますね。伊藤博文、田中角栄、松下幸之助などが「今太閤」と称されました。
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ここで、「豊臣」について語ります。秀吉は征夷大将軍にはならず関白に成りました。従来の学説では、将軍は源氏が就く官職、秀吉は平氏を称していた為、足利義昭の養子となって将軍宣下を受けようとしたが義昭に拒絶され、関白に成った、と説明されてきました。
これが近年見直されます。朝廷が信長に将軍任官を打診したことがわかったからです。信長は平氏を称していました。平氏を称する信長に朝廷が将軍職任官を勧めたのには明確な理由がありました。
朝廷の使者は信長が武田を滅ぼしたことを理由に挙げます。「関東討ち果たされ珍重に候」と記録にはあります。
つまり、征夷大将軍本来の役目、蝦夷を征伐する、東国を征する役目を信長が果たしたことを朝廷は評価して将軍に推任したのでした。
従って、平氏でも東国を征すれば将軍に成る資格を得られることが判明しました。
秀吉は関白に成る前、徳川家康、織田信雄と小牧長久手で合戦し、調略で和睦したものの東進を阻まれました。それゆえ、将軍になる資格が得られず関白を目指した、という学説が出ています。
事の真偽はともかく、秀吉は武家の身で公家の頂点である関白と成りました。関白は天皇を補佐する役目ですから、京都で政治を執り行います。
更に天皇から、「豊臣」姓を下賜されました。従来の、「源平藤橘」と呼ばれた、源氏、平氏、藤原氏、橘氏に、「豊臣」という姓が加わったのです。これは、日本史上画期的なことでした。
武家であれ公家であれ、系図を作成する場合、先祖は、「源平藤橘」いずれかに辿り着くのですが、この四姓ではない、「豊臣」という新たな姓を秀吉は天皇から賜ったのです。
足利、織田、徳川は名字、本姓は、足利は源氏、織田は平氏、徳川は源氏です。秀吉は豊臣という本姓を名乗ることで、足利も織田も徳川も超えた存在となりました。
平清盛は、「たいらのきよもり」源頼朝は、「みなもとのよりとも」藤原道長は、「ふじわらのみちなが」橘諸兄は、「たちばなのもろえ」と読みます。
ですから豊臣秀吉は、「とよとみひでよし」ではなく、「とよとみのひでよし」と読むのが正しいのですね。
秀吉が太閤となってから、秀頼が誕生して事態は変わります。秀次は謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれます。一族や側室は斬首、聚楽第は破却されました。
秀吉は秀頼を後継者と定め、将来は大坂城に入れようと考えました。それに伴い、伏見城は豪華絢爛な大城郭に造営されてゆきます。大仏同様、ふんだんに金で飾り立てられました。
また、慶長伏見地震が起きた時は、明国の使者を迎えて和平交渉の最中でした。秀吉は明国皇帝の居城、紫禁城にも劣らない巨大で華麗な城、と数多の美女を揃え、使者を驚かせようとしていたのです。
この為、300人~400人の女性が圧死しました。秀吉の栄華や権勢を具現化した伏見城は阿鼻叫喚の様相を呈したのでした。
地獄絵図と化した伏見城の庭で秀吉は奥女中の着物を羽織り、幼い秀頼を抱いて救援を待ちました。
秀次が切腹したのは1年前、文禄四年(1595)の7月15日、慶長伏見地震は閏月ですが7月13日、廃墟と化した伏見城に立った秀吉は秀次の恩念を感じ、震えていたのではないでしょうか。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年6月10日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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image by: Atiwat Witthayanurut / Shutterstock.com