2012年のサービス開始から10年、今や登録者数が40万人を超えるネスカフェアンバサダー。その大ヒットは、ネスレ日本の「次」を模索する姿勢によってもたらされたものでした。今回、ネスカフェアンバサダーを「イノベーション」の観点から解説するのは、神戸大学大学院教授で日本マーケティング学会理事の栗木契さん。栗木さんは同サービス誕生の過程を紹介するとともに、「企業がテクノロジー・イノベーションの果実をより大きなものにするため目を向けるべきこと」について論じています。
プロフィール:栗木契(くりき・けい)
神戸大学大学院経営学研究科教授。1966年、米・フィラデルフィア生まれ。97年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(商学)。2012年より神戸大学大学院経営学研究科教授。専門はマーケティング戦略。著書に『明日は、ビジョンで拓かれる』『マーケティング・リフレーミング』(ともに共編著)、『マーケティング・コンセプトを問い直す』などがある。
収益源の複数化で事業の成長を加速化したネスカフェアンバサダー
成長の足どりが軽かったスカフェアンバサダー
ネスカフェアンバサダーは、ネスレ日本が開発した人気のサービスである。このサービス・プログラムでは、職場などでの世話役となるアンバサダーが同僚などを利用者として募り、コーヒー・カートリッジの定期購入を条件に申し込みを行うと、審査を経て、無料でコーヒーマシンのネスカフェ・ゴールドブレンド・バリスタの提供を受けることができる。
このプログラムの利用は、2012年のサービス提供開始とともに年々広がり、現在ではアンバサダーの数は40万を超える。そして、このアンバサダーたちの背後には、職場に置かれたバリスタを利用してコーヒーを楽しむ複数の人たちがいる。
ネスカフェアンバサダーは、価格政策についていえば、フリーミアム・モデルである。コーヒーマシンはカートリッジと組み合わせて利用される。マシンを無料で提供するねらいは、カートリッジの使用をうながすことにあり、この消耗品の販売からネスレ日本は収益を得る。
ネスカフェアンバサダーは、チャネル政策についていえば、セルフサービス型の事業である。浄水やコーヒー・カートリッジの補充などのコーヒーマシンのメインテナンスは、顧客であるアンバサダーに委ねる。一般に、自動販売機やコーヒーマシンなどを設置し、職場への飲料提供を行うビジネスでは、メインテナンス・サービスは、各種の機器を設置する企業が行う。しかし、このようなビジネスモデルだと、サービス拠点の開設やスタッフの採用など、体制を整えながら拡販を進めていくことになり、事業拡大には重しがかかる。ネスカフェ・アンバサダーにはこの制約がなく、サービスの開始とともに全国への迅速な事業展開を果たす。
テクノロジー・イノベーションは、ひとつの要素に過ぎない
閉塞感の強い日本の産業に新たな成長を生み出すエンジンとして、イノベーションへの期待が一段と高まっている。イノベーションとは、これまでにない新しい製品やサービス、あるいはビジネスプロセスを生み出すことを通じて、産業や社会の発展を導くことである。イノベーションには、画期的な新しい技術の開発や導入が必要と考えられがちだが、必ずしもそうではない。
ブルー・オーシャン戦略の提唱者であるW.C.キムとR.モボルニュによれば、産業の成長には、新しい市場の創出が必要であり、新しい市場を生み出すには、買い手にとっての価値を増大させる必要がある。この価値の増大においてテクノロジー・イノベーション(技術革新)は、ひとつの要素に過ぎない。街角でのコーヒーの楽しみ方を変えたスターバックスのように、最先端技術は用いなくても社会を変えるイノベーションは実現する(『ブルー・オーシャン・シフト』ダイヤモンド社、2018年、pp. 48-49)。
バリュー・イノベーションと手を携えることの重要性
テクノロジー・イノベーションは重要だが、それだけでは十分な市場獲得には至らないことがある。テクノロジー・イノベーションは、バリュー・イノベーションと手を携えることで市場獲得の可能性を拡大する。
テクノロジー・イノベーションとバリュー・イノベーションが連携することの重要性については、ネスカフェアンバサダーにおいても変わりはない。ネスカフェアンバサダーというサービス・プログラムは、そもそもネスカフェ・ゴールドブレンド・バリスタの開発というテクノロジー・イノベーションをネスレ日本が成し遂げていなければ、生まれることはなかった。その一方で、テクノロジー・イノベーションとは別の取り組み ― すなわち価格政策やチャネル政策などのマーケティング・サイドでの新しい仕組みの創出 ― を進めたことから、ネスカフェアンバサダーは生まれている。
事業の成長を加速する収益源の多様化
バリスタというマシンは、ネスレ日本だけではなく、スイスのネスレ本社が自社内に蓄積してきたコーヒーの豆やマシンなどに関する知的リソースから生まれた。このマシンは、2000年代以降の日本のコーヒー市場の戦略的課題を見据えたうえでネスレ日本が主導した知の探求の成果である。
バリスタは、優れたマシンであると同時に、販売面でも一定の成功をおさめる。2010年に発売されたバリスタは、国内で最も販売数の多いコーヒーマシンとなる。
ネスレ日本は、このヒットに安住しなかった。「こんなことで喜んでいてはダメだ」と、人口減少社会への強い危機感から、「次」の模索を続ける。
この模索のなかから、ネスカフェアンバサダーのセービス提供がはじまり、バリスタの収益にさらなる柱が生まれる。職場でネスカフェアンバサダーを使った利用者が、バリスタを気に入り、家庭用に購入するといった流れも生まれる。
当初のバリスタのマーケティングが採用していたのは、間接チャネルによるマシンとカートリッジの販売から対価を得る、プロダクト販売モデルだった。そこにネスカフェアンバサダーという価格政策とチャネル政策のイノベーションによる価値獲得が加わり、職場での新しいコーヒーの楽しみ方が一気に広がる価値創造を果たす。
企業がテクノロジー・イノベーションの果実をより大きなものにするには、自社に利益をもたらす収益源を複数展開することに目をむけるべきである。ネスカフェアンバサダーは、この収益源の多様化という課題にこたえるものだった。
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