7月8日、奈良県での遊説中に銃撃を受け、帰らぬ人となった安倍晋三元首相。政治家としての評価は分かれるところですが、では「人間」としての安倍氏はどのような素顔を持っていたのでしょうか。今回のメルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』ではジャーナリスト・作家として活躍中の宇田川敬介さんが、安倍氏の威勢の良さを表す学生時代の知られざるエピソードを紹介。さらに安倍氏と初めて顔を合わせた当時の世界情勢等を綴っています。
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元首相安倍晋三氏との思い出 1 安倍氏と私の出会い
安倍晋三氏と私があったのは、当然安倍氏が政治家になってからの事です。
私がお付き合いのある老練なジャーナリストは、安倍晋三氏がまだ父安倍晋太郎が外務大臣であった時の秘書官としての姿や、その前の成蹊大学の大学生であったことを知っています。
その話を聞けば、安倍晋三氏というのは、かなり「なまいき」で「威勢がいい」若者であるということでした。
六本木のディスコ(当時ですから)で、その出入り口でアメリカ軍と思われる黒人と肩がぶつかったということです。
まだ若き学生時代の安倍晋三氏は、その黒人に喧嘩を仕掛けたというのです。
安倍晋三氏も、体格は立派な方ではあると思いますが、現役の黒人の海兵隊員(後にわかったことのようです)との対格差は歴然としていたといいます。
安倍晋三氏と一緒に来た大学生(ジャーナリストによると3人いたとメモにあるとのこと)は、皆逃げてしまったが安倍晋三氏は、たった一人でもそのまま立ち向かっていったというのです。
アメリカ人は、黒人と一緒に来た数名の外国人も一緒になって安倍晋三氏とけんかになり、安倍晋三一人対数名のアメリカ軍人という喧嘩が始まったといいます。
まあ、さすがに威勢のいい安倍晋三氏と言えども、その結果は火を見るよりも明らかとのことです。
一度逃げた数名が、ディスコの店の人などを連れてきて、やっと喧嘩が収まった時、安倍晋三は「もう少しでこの外国人を倒せるはずだったのに」と、喧嘩を止めた安倍氏の友人たちを怒ったと言います。
そのうえで「覚えてろ、次はお前らを倒してやる」と言い放ったといいます。
かなりけんかっ早く、ついでに、意外と強気であったというのが安倍晋三氏の若いころの性格であるといいます。
父、安倍晋太郎氏はそのような安倍晋三氏に「他の企業で就職をしても、あまり長続きはしない」ということから、自分の近くに置き、そんなに喧嘩をすべきではないというようなことを説いたといいます。
その後、いくつかの就職活動をしますが、安倍晋太郎氏が外務大臣になるにあたり、その秘書官として勤務するようになり、外交を学ぶことになったということです。
なお、件の老練なジャーナリストは、この時に外務大臣安倍晋太郎氏の件で外務省の職員(官僚)の所に取材に行って、その官僚の家で、まだ学生であった官僚の娘にお茶を出してもらったといいます。
安倍晋三氏とは全く関係がない彼の「自慢の話」ですが、その学生であった官僚の娘こそ、現在の皇后陛下であるということです。
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さて、そんな安倍晋三氏と会うことになりました。
国会新聞の主幹によばれ、その主幹の友人であった元々安倍晋太郎氏の秘書を務めていた方の紹介で、安倍晋三氏の話を聞くということになったのです。
要するに、取材とも何とも言えない状態で安倍晋三氏と会っているのです。
当時は小泉純一郎氏が首相であった時代で、安倍晋三氏は自民党幹事長でなかったかと思います。
2004年、ちょうどイラク戦争が起きていたころの事です。
イラク戦争とは、アメリカ合衆国が主体となり2003年3月20日から、イギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題の大量破壊兵器保持における進展義務違反を理由とする「イラクの自由作戦」の名の下に、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入事件です。事件というよりは、間違いなく戦争なのですが。
当然に日本の外務省はイラクへの渡航自粛勧告を出します。
日本の場合は、外務省において「命令」と言ことは出来ません。
憲法の中に「移動の自由」ということが明記されていますので、共産主義国のようにまたは軍隊を持った国で戒厳令などが発布され、憲法による人権が一部制限される規定がある国とは異なります。
そのために、どのような場合も「移動の自由という基本的人権の否定」はできないということになっています。
これは、今日、豪雨被害などの時に「緊急避難命令」ということが出来ないということと同じになります。
「緊急避難勧告」は出すものの、それ以上強い国家による強制権を発布することは出来ないとされているのです。
同じことはコロナウイルス禍の時も同じで、ヨーロッパの各国がロックダウンを行っているときに、「外出自粛要請」というようなことしか出来ないことも同じ理由なのです。
さてそのようなことから、「イラクに対する渡航自粛勧告」ならば、強制的に渡航中止はできないということで、いくつかのイラクへの日本人の渡航が行われることになったのです。
渡航自粛勧告を無視し2003年のイラク戦争以降にイラク武装勢力によりイラクに入国した日本人が誘拐され、人質として拘束された事件が相次ぐということになります。
イラク現地の武装勢力が、イラクに入国した外国籍のボランティア、NGO職員、民間企業社員、占領軍関係者などを誘拐する事件が頻発します。
誘拐の要求の多くは、誘拐した外国人を人質に、彼らが本籍を置く政府に対して、自国の軍隊(日本では自衛隊)をイラクから引き上げることを要求するものとなったのです。
2004年3月に、アメリカ兵の殺害事件がイラクで発生し、そののちに4月イラクに侵入したイギリス人が拉致される事件が発生します。
この時に、日本では「日本人は拉致されないのではないか」などの楽観論がマスコミの中にあったことは間違いがありません。
あまり根拠はないのですが、なぜか「中東は日本の立場は理解している」「日本は軍隊がないから問題がない」などのことをいう人が少なくなかったのです。
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ちなみに、この時イギリスでは「イラク渡航奨励令」が出されています。
これは、「テロリストと交渉せず」ということを実直に行い、テロリストが支配しているという現実に対して、それに反して「観光旅行に行くべきである」というようなことを言い始めたのでした。
さて日本は当然にそこまでの覚悟もありませんので、「渡航自粛勧告」になっていますが、これに対して、なぜか逆に政府に逆らってボランティアや、イギリスではないが観光旅行に行くという暴挙に出る人が出てくるのです。
そのなかで、2004年4月7日イラクで日本人3名(高遠菜穂子、郡山総一郎、今井紀明)が武装勢力によって誘拐されるという事件が発生します。
翌日、カタールのインターネットテレビ局「アルジャジーラ」が犯行グループから送られてきた映像を放送します。
犯行グループは、イラクのサマーワに駐留している自衛隊の撤退を要求する声明を発表したのです。
犯行グループからの要求に対し、日本政府は自衛隊を撤退させる考えのないことを表明します。
この一連の動きに関して、誘拐された人々は、勝手に行ったにもかかわらず、日本のマスコミでは「自衛隊派遣の犠牲になった」というような感覚になってくるのです。
小泉純一郎首相は、自衛隊を撤退する意思がないことを明らかにするとともに、人質の救出に日本政府として全力をあげるよう指示します。
また、人質となった日本人3人の家族が東京でアルジャジーラの取材に応えて人質解放を訴え、その映像が中東全域に放送されました。同日逢沢一郎外務副大臣や、塩川実喜夫警察庁警備局国際テロリズム対策課長らがアンマンに入ることになりました。
さて、安倍元首相、確か当時幹事長に呼ばれてあったのは、この時だったのです。(次回へ続く)
(メルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』2022年9月5日号より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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