現代にも多くのアイドルや芸能人を輩出した名プロデューサーがいますが、歴史上でもその手腕を発揮し弟子を売り出したプロデューサーが存在します。そんな人物のお話を、作家でユーチューバーの顔も持つ小名木善行さんが、自身のメルマガ『ねずさんのひとりごとメールマガジン』の中で紹介しています。
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今川義元を売り出したプロデューサー「太源雪斎」とはどのような人物だったのか?
プロデューサーのお話をしたいと思います。一昔前なら、山口百恵を売り出した名プロデューサー、近年なら、AKB48を売り出した秋元プロデューサーがいます。どちらも、言い方は悪いですけれど、特別美人でもなければ、歌が格別上手なわけでもない、どちらかというと普通の女の子を、超売れっ子に育て上げました。
歴史の中での名プロデューサーといえば、今川義元を売り出した太源雪斎がいます。
太原雪斎は、今川義元の師匠であり、その子今川氏康と家康の少年時代の師匠でもあった人物です。なんと今川家の家臣でありながら、なんと後には後奈良天皇から宝珠護国禅師を贈られたほどです。その太源雪斎が、今川義元のいわばプロデューサーとなり、これによって今川義元は、海道一の弓取りとまで言われるようになりました。けれど太源雪斎が死んだあと、自分で措置をしなければならなくなった今川義元が、自身で兵を率いて尾張へと侵攻し、結果、桶狭間で命を失うに至っていることは、皆様御存知のとおりです。それだけ太源雪斎の影響は、計り知れないほど大きかったのです。当時は、そうした人物を軍師とか師匠とか呼びました。それが現代用語では、プロデューサーという用語になります。
もうひとついいますと、太原雪斎は、若き日の徳川家康の教育係であった人物でもあります。
では、太源雪斎とはどのような人物であったのでしょうか。
太原雪斎の父は駿河国の庵原(現在の静岡市清水区)の城主です。母もまた水軍を率いて海運を行う興津横山城主の娘です。つまり両親ともに武家の棟梁の出であるとともに、陸海両軍の武将の血を受け継いで生まれたわけです。
それがどういうわけか、富士山の麓にある臨済寺に入寺して僧侶になりました。もっともこの時代、臨済の僧侶は、いまでいうなら東大生のようなものでしたから、いわば東大受験のために、太原雪斎は予備校もしくは進学校の臨済寺に入寺したと考えるとわかりやすいと思います。
臨済寺にあっても、抜群の成績を残した太原雪斎は、その後選ばれて京の都にある臨済宗の総本山の建仁寺で修行することになります。そして建仁寺でも、とびきりの優秀さが認められた人物でした。建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山で、有名な俵屋宗達の「風神雷神図」があることでも知られているお寺で、京都五山のひとつに数えられているお寺です。
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そんな太原雪斎に目を付けたのが、今川義元の父にあたる今川氏親です。氏親は、息子で跡取りの今川義元の教育係兼補佐役として太原雪斎を雇おうと交渉します。二度断られ、三度目にやっと本人の承諾を得ることができました。そして氏親は若い太原雪斎を駿河に招いて今川家の最高顧問に据えました。そして氏親が亡くなり、義元が家督を継ぐと、その政治軍事の両面を太原雪斎が全面的に補佐することになりました。これが今の世でいうなら、プロデューサーになったという状況です。
家督を継いだ義元のもとで雪斎は、はじめに悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務めました。義元の正室に信虎の長女の定恵院を迎え、信虎の嫡男の晴信に、都の貴族で今川家の遠縁にたる三条家の娘を周旋して甲駿同盟を成立させました。
この同盟に危機感を抱いたのが、それまで同盟関係にあった相模の北条氏綱です。甲斐と駿河が同盟すれば、相模の北条氏はひとたまりもない。だから甲斐と駿河の交通路となる富士川を制圧占領して、甲斐と駿河の交通を遮断したのです。駿河の今川にしてみれば、それは相模の北条氏の一方的な軍事侵攻ですが、北条氏の側から見れば、相模との同盟関係があるのに駿河が甲斐と同盟を結ぶということは、事実上の北条氏への挑戦であり、北条との同盟関係を破棄したのは、むしろ今川側にある、という見方になります。
ちなみにこのことは、同盟関係というものを考える時の重要な手がかりとなります。同盟関係は、情勢が変わればいとも簡単に破棄されるものだということだからです。近年においても先の大戦の末期にソ連が日ソ不可侵条約を破って日本に侵攻してきました。これを「ソ連による一方的な条約破棄だ」という人がいますが、日本が米軍に占領されれば、満州も樺太も日本も米軍に押さえられ、ソ連は太平洋への出口を失うのです。日本が強かった間は、日ソ不可侵条約でソ連の安全は図られましたが、日本が敗れれば、ソ連にとっては米軍との敵対という事態を前に手を打たなければならなくなるのです。つまり情勢が変わった。だからソ連は日本に侵攻しています。
同様に現代日本は、米国との安全保障条約下にありますが、これもまた情勢次第では、いつでも一方的に破棄される危険もあるということになります。同盟とはそういうものであるということを、我々は歴史から学ぶ必要があると思います。
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さて、富士川までを奪われて甲斐との交通を遮断された今川方は、果たしてこの北条氏の侵攻にどのように対抗したのでしょうか。実はこのときの総指揮を執ったのが太源雪斎です。太源雪斎は、この一方的な占領に対してすぐに反撃をするのではなく、関東管領の上杉憲政を誘い込み、関東管領の意志であるという形を整えて、さらに武田晴信と共同して奪われた河東に出兵して、一滴の血を流すことなく、この地を取り戻しました。
それですぐに北条氏と同盟関係復活の交渉をはじめたかというと、そうではありません。その前に、今川の西の三河に、尾張の織田信秀が侵攻し、三河の松平広忠(家康の父)が援軍を要請してきたのです。
太源雪斎は2万の大軍を率いて三河に向かい、織田軍を破り、織田信秀の嫡男の織田信広を捕縛して、幼い松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換を行っています。そして三河の跡取りの松平竹千代を人質として駿河に置きました。
こうして国の西側(三河)方面の安全を確保した太源雪斎は、あらためて東の北条氏と交渉し、北条氏の娘の早川殿を、今川義元の跡取り息子である今川氏真の正妻に貰い受け、甲相駿三国同盟を締結させています。ちなみのこの同盟締結のときに、太源雪斎によって、今川義元、武田晴信、北条氏康が駿河の臨済寺で会合したという話もあったりします。それが事実かどうかまでは確認が取れませんが、すくなくとも、そのような噂が立つくらい、この三国同盟は画期的なものであったわけです。
ちなみにこの太源雪斎、『御屋形対諸宗礼之事』という書を遺しているのですが、そのなかに
「有徳の僧であれば宗派や肩書などにこだわらずに尊敬し、肩書だけが立派でも奢って堕落した高僧など相手にするな」
という内容の記述があります。名聞名利より実力こそ大事ということですが、勝って奢らず、実力を示し続けた太源雪斎だからこその遺言であろうと思います。
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そんな太源雪斎は、今川義元の嫡子の氏真の教育係を勤めましたが、このとき人質となっていた松平竹千代(後の家康)も、氏真のいわば学友として、一緒に太源雪斎から教育を受けることになります。後年、60歳を過ぎた家康は、都にあって異端視されていた弱冠22歳の若い儒者の林羅山に、徳川家の家臣たち全員の教育を委ねていますが、そうした行動も、若き日の太源雪斎の教えがもとになっていたといえようかと思います。
そして太源雪斎が死ぬと、今川義元は、自分で軍を率いて信長と対峙しなければならなくなりました。太源雪斎が生きていれば、それは太源雪斎が行うことでした。代わりに侵攻した今川義元は、緒戦の勝利に奢り、桶狭間で宴に興じていたところを信長に急襲されて殺害されています。
太源雪斎を失った今川家は、義元の死後、今川氏真が後を継ぎますが、それも長続きせず、結局国を滅ぼしています。逆に言えば、それだけ太源雪斎が、今川家にとって大きな存在であったということです。
プロデューサーは、表舞台に立って歌を歌う歌手ではありません。若い女の子でもありません。けれど、どんなに才能があっても、プロデューサーに恵まれなければ、成功はおぼつきません。同様に、たいした才能に恵まれなくても、名プロデューサーに恵まれれば、大成功を治めることができます。
もちろん歴史の中には、信長や家康のように、本人自身がものすごい実力を発揮できた人物もいます。けれど、多くはプロデューサーあっての成功だということを、私たちは学ぶ必要があります。
日本をかっこよく!!
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