日本の醜さと情けなさを映す鏡。沖縄の「本土復帰50年」を総括する

 

復帰は「日米安保条約下の日本への復帰」だった

なぜこんなことになったのか。1つの有力な着眼点は、大田昌秀元知事の言葉を借りると「沖縄の人々が切実に希求したのは『平和憲法の下への復帰』だったにもかかわらず、逆に『日米安保条約の下への復帰』になっ」てしまったことではないか。

沖縄人の本当の祖国と言えば「アメリカ世」はもちろんその前の「ヤマト世」66年間をも飛び越えた琉球王国しかあり得ないというのに、そこに目を瞑って敢えてヤマトを“祖国”と呼び、それこそ当時のオール沖縄の諸団体を総結集して「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」を組織して運動を繰り広げたのは、「平和憲法下の日本への復帰」が叶いさえすれば米軍直接占領下の苛烈な軍事支配から逃れられると信じたからである。ところが、復帰して見て分かったのは、復帰した先は「平和憲法下の日本」ではなく「日米安保体制下の日本」だったということである。

これを本土の側から見れば、佐藤栄作首相が登場して早々の1965年8月に現職の首相として戦後初めて沖縄を訪れ「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」という“名文句”を吐いて俄に沖縄の復帰を政治課題として提起してきた時、彼らの側は、

  1. 米軍の直接占領下で在沖米軍基地をこれ以上維持するのは住民感情からして難しく
  2. そのため施政権を日本に返還して住民感情を和らげると共に、今後は日本政府が責任を持って住民を抑えて米軍に安定的に基地を提供し、またその諸費用も負担することとする
  3. 合わせて日本自衛隊が大きく南進し、米軍の補助的役割を沖縄にまで拡張する

――つまり「日米安保体制下の日本」に沖縄を組み込もうとするものであることを、はっきりと企図していた。第2次佐藤内閣の総務長官だった床次徳二があからさまに述べたように「沖縄の人たちは日米安保体制の一環として復帰を考えてもらいたい」ということだったのである。

ところがこの当時の本土の国民というか革新運動の側は、1960年の岸信介内閣による日米安保条約の改定に反対する闘争を戦い切れずに挫折し、ということは、「平和憲法下の日本」を優勢にして「日米安保条約下の日本」を抑えつけることに失敗して、池田勇人内閣の「イノチよりカネだろう、お前ら」の高度経済成長路線に半ば絡め取られてオロオロしている時期だった。つまり「平和憲法下の日本」は弓折れ矢尽き果てた有様で、その時に沖縄から「平和憲法下の日本」に復帰したいと言われても「そうですか、それは目出度い、どうぞ安心して『平和憲法下の日本』の懐に抱かれて下さい」と言えるような状況では到底なかった。

しかし欺瞞的なことに、本土の革新側は、「復帰自体はいいことだ」という誰にも反対し得ない抽象的な大前提を据えた上で、それを「県民の復帰運動の成果だ」と、これもまた半分は本当なので否定するのは難しい具体的な理由を付けて、大いに歓迎した。復帰先に指名された日本が実は「平和憲法下の日本」ではなくて「日米安保条約下の日本」でしかないことを告白し、そういう日本にしか沖縄を迎えることが出来ない自分達の運動の非力を土下座して謝るべきだったというのに。

私は当時まだ20歳代で、革新陣営の一角で駆け出しの記者として執筆・講演活動に励んでいたが、そのような復帰を提灯デモで祝うかのような革新側の欺瞞性というか没主体的な偽善性に我慢が出来ずに異論を立ててその陣営から追われる羽目になった。

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