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なぜ、具合が悪い人がいても順番通りに呼ぶ病院で誰も文句を言わないのか?

「平等は大切」とよく言われますが、そもそも平等とは何なのでしょうか? 私たちは、みんな平等に扱わないと「贔屓している」と思われることを恐れているのかもしれません。メルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』の著者で自己改革小説の第一人者・喜多川泰さんは今回、「 贔屓」と「平等」というものについて語っています。

贔屓(ひいき)の呪縛から解放される指導理念

平等の大切さを教えるのはとても大切なことだと言われます。ところが「平等は大切ですよ」とは教えられるけれども「平等って何か」については誰も教えてくれません。

実は、何が平等かなんて誰にもわからない。

みんなが受け入れているものも決して平等ではない。

累進課税が平等なのであれば、消費税は不平等だし消費税が平等なのであれば、累進課税は不平等でしょ。

みんな、平等かどうかは別として「多くの人が納得できる」という落とし所で社会は成り立っている。要は「その価値観に納得できる」かどうか。

学校が「贔屓は極悪!」という環境ならば、社会に出るまでの訓練を学校でして「贔屓されてこそ幸せになれる」という社会で成功しようとしても、その切り替えがうまくいく子のほうが少ないのは当たり前でしょう。

「では喜多川さんは、学校でも贔屓しろと?」

と言われそうですが、贔屓しろともするなとも思っていません。だって、そもそも「平等」がわからないんだから、贔屓のしようがないわけですよ。もしくは、これまでだって「平等に」を意識しつつ贔屓ばかりしてきたかもしれないということでもありますよね。

実際に多くの贔屓は、「平等に」を意識しすぎた結果に起こっています。

授業の説明を聞いてわからなかった子がいる。

「ここまでで何か質問ある?」と先生が尋ねて、あまり聞いていなかった一人の生徒が「全部わからない」と言ったとする。

そうすると、先生はその一人の生徒のために、一から全部説明をし直したりする。

それは、贔屓じゃないの?

もし、しっかり聞いていた一人の生徒が「全部わかるんですけど、じゃあこの問題は?」とさらに難しい未習内容の質問をしたら、その一人の生徒のために、一から全部説明をして、他の生徒をみんな待たせる?

自分は日々贔屓をしているのかもしれない。ということを感じてもらえるでしょうか。

なのに「贔屓だ!」と言われないのは何故か。それが平等だからじゃない。多くの生徒が「わからない子がいたらわかるまでみんなで待ってあげる」という価値観に納得しているからですね。

だから、逆の価値観でほとんどの生徒が納得している環境においては、前者のような場合でも「聞いてないほうが悪い」の一言で質問した本人を納得させて、他の全員のために授業を進めることだってあるだろう。

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教室のルールに限らず、社会の中にある価値観も「それが平等だ」と思われているけど、本当は平等かどうかなんて誰にも判断できないものがたくさんある。

村長も年に数回、高熱を出してかかりつけのお医者さんに診てもらうんだけど、病院嫌いの村長が病院に行くときは、死ぬほど苦しんでいる時しかないんですね。

ところが、病院というのはいつ行っても混んでる。待合室に座れないほど順番待ちをしている人がたくさんいるから、立っているのも辛い状況なのに座れないで待つということもよくある。

で、待っている人を見ると、結構大丈夫そうな(失礼な話)人が多い。今じゃなくても大丈夫な薬だけもらいにきたような人がね(完全に自分勝手フィルターで相手のことを見ていますが)。でも受付順に診療されることが、覆されたことがありません。

僕も含めて、誰もそのやり方に文句を言う人はいません。「受付した順番に診る」と言う価値観に「納得」しているからです。

人によっては、受付をして、近くのスーパーで買い物をして、帰ってきたら自分の順番で、という猛者もいますが誰も文句を言わない。「それもありだ」と納得しているんですね。

我が家の愛犬が急に具合が悪くなったときのこと。日曜日だったこともあり、救急動物病院に連れて行ったんです。事前に電話を入れておいたこともあり、着いたときにはすぐに処置室に運び込まれました。待合室には、順番を待つ人がたくさんいたのですが、優先してくれた。

僕は、「事前に電話しておいてよかった」と思ったんですね。その受付順に受診してくれたんだと思っていたから。ところが、病院の待合室に、「当院ではトリアージを行なっております」と掲げられていたんです。

トリアージとは、緊急時など診療を必要とする患者がたくさんいる場合に、緊急度の高い患者から順に診療を行うべく優先順位を決めること。

つまり受付順じゃなかったんですね。だけど、待っている人は誰一人として文句を言う人がいない。「それが平等だ」と思っているわけではなく「その価値観に納得している」からでしょう。

教室においても、職場においても、順番よりも緊急性を優先しなければならないことが多々あります。いやむしろ、「どうしても、この子には今この助けが必要だ」と思うことばかりです。

そう思ったら順番を気にせず、今すぐ一番いい処置をしてあげるべきです。

それがたとえ、それまでに誰にもしてあげたことがないことだとしても、「贔屓だ」と言われるのを恐れて機会を逃すことの方が問題です。

指導者のそういう行為が納得してもらえないとしたら、最初から「トリアージを行なっています」と宣言していないだけかもしれません。

何を優先しているのかという指導者の価値観が事前に相手に伝わっていたら、その価値観には納得してもらえることがほとんどです。

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指導者は自分の中の「平等」の判断基準が、世間のものとズレていないという前提で、すべての子供や部下に平等に接していると思っています。でもそれは、「自分の価値観の中での平等」であって、別の人の価値観では「贔屓」になるということなのです。

「僕は自分の価値観において平等に接します」というのと「僕は贔屓します」というのは同じことを言っているんですね。

ところが「贔屓」という言葉に対する嫌悪感から「贔屓をしない」と決めたがる先生が多い。でもそうすると自分の価値観において平等に接することもできなくなっていく。やっていることは同じことですから。

がんじがらめになって、何をしていいかわからなくなってしまう人も出てきてしまう。

だから、教室や職場においても事前に生徒や保護者、部下に対して「教育のトリアージ宣言」をしておくことが大事。

大切なのは平等に接することでも、贔屓をしないことでもない。自分の教育理念を相手に伝えて、納得してもらい、それに忠実に相手を助けること。

子どもたちには、頑張って他の人が手にできない何かを得た人を見たときに「贔屓」という言葉を盾に、頑張っている人の足を引っ張るような大人にはなってほしくないんですよね。

「贔屓」という言葉に嫌悪感を抱かずに、社会に出てもらいたい。そうすれば、子供の頃からずっと、「どうしたらご贔屓さんを増やせるか」「どうしたら贔屓される人になれるか」ということを考えたまま大人になれますから。それを考え、行動するということは、社会に出る前の大切な訓練になる。

というわけで、今週の一言。

「平等じゃなくてもいい。気になる子にはやってあげたいことを全力でやればいい」

「私はそんな人です」

と一言事前に説明して、「納得」してもらっていれば「贔屓だ!」なんて騒ぎ立てることはありません。子どもたちだって『トリアージ』は理解できますから。

村民の皆様にはもう一言。

いつも、ご贔屓にしていただき、ありがとうございます。

また来週。

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image by: Shutterstock.com

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1970年生まれ。2005年「賢者の書」で作家デビュー。「君と会えたから」「手紙屋」「また必ず会おうと誰もが言った」「運転者」など数々の作品が時代を超えて愛されるロングセラーとなり、国内累計95万部を超える。その影響力は国内だけにとどまらず、韓国、中国、台湾、ベトナム、タイ、ロシアなど世界各国で翻訳出版されている。人の心や世の中を独自の視点で観察し、「喜多川ワールド」と呼ばれる独特の言葉で表現するその文章は、読む人の心を暖かくし、価値観や人生を大きく変えると小学生から80代まで幅広い層に支持されている。

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