安倍氏がことあるごとに持ち出した「椿事件」
是枝氏ら当時のBPOメンバーは「放送法4条に対するスタンス」を急激に変えていった安倍政権に対し、NHK「クローズアップ現代」の「やらせ」問題についての意見書(2015年11月6日)のなかで、こう指摘した。
「放送の不偏不党」「真実」や「自律」は、放送局に課せられた義務ではない。この原則を守るよう求められているのは、政府などの公権力である。政府が放送に介入することを防ぐために「放送の不偏不党」を保障し、政府が「真実」を曲げるよう圧力をかけるのを封じるために「真実」を保障し、政府による規制や干渉を排除するために「自律」を保障しているのである。
公権力がテレビ番組に介入することがないよう保障しているのが放送法であり、放送倫理を業界が自主的に守るためのチェック機関としてBPOが存在する。これが正しい理解だ。
当時の高市総務大臣が「クロ現」に関し文書でNHKに厳重注意をした件について、BPOは「個々の番組の内容に介入する根拠がない」と指摘した。1950年の放送法制定時から今日までの間に積み重ねられた議論をもとに、放送法4条の「政治的公平」は「倫理規範」にすぎないとしたのだ。これに対し、高市総務大臣は「放送法には規範性があり、違反があれば3ヶ月以内の業務停止命令ができる」と反論していた。
是枝氏が指摘した「椿事件」は、1993年に非自民8党会派による細川連立政権が誕生した後、テレビ朝日の報道局長だった椿貞良氏の発言がもとで起きた騒動だ。日本民間放送連盟の会合における以下のような発言が産経新聞に報じられ、自民党が下野したのはテレ朝の偏向報道のせいではないかと問題になって、椿局長が国会の証人喚問に呼ばれるなどした。
「ニュースステーション」、久米宏に対する風当たりはひどいんです。もちろん自民党ですが、ヒステリックと言うよりは、暴力的なものだった。…「今度の選挙は、自民党を敗北させないといけませんな」と局内で話し合ったんです。…ただ、私どもがニュースとか選挙放送を通じて、55年体制を今度は絶対突き崩さないとだめだと、まなじりを決して今度の選挙報道に当たったことは確かです。
この時の選挙に無所属で立候補し初当選したのが、元テレビキャスターの高市氏だった。
「椿事件」は、とりわけ非自民連立政権の誕生を憎んだ人々からは偏向報道として扱われるが、ニュースステーションが放送法に違反していたわけではなく、椿氏の舌禍事件というのが正確であろう。しかし、その軽率な発言がテレビの偏向報道の代表例として今に至るまで自民党に利用され、メディアを圧迫する材料にされているのである。このために、放送する側が萎縮し、自主規制しかねない雰囲気を生んでしまったことは、テレビ界にとって痛恨事であった。
安倍晋三元首相は、ことあるごとに椿事件を持ち出した。2014年11月20日付で自民党から在京テレビキー局あてに「公平中立、公正な報道姿勢にご留意いただきたい」という内容の文書が届いたことについて、日本記者クラブでの党首討論のさい、「なぜメディアを信用できないのか」と記者から質問された安倍氏は「かつて『椿事件』というのがありましたよね…あのとき、細川政権ができたわけでありますから、まさにああいう問題が起こってはならないということも当然ある」と答えている。
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