昔のことを考えて「あのときこうしていれば」と後悔し、確かな未来が見えず「このままでいいのか」と心配する。人間の脳は、意識しないでいるとすぐに過去と未来を行き来する「タイムトラベル」の力を働かせてしまうようです。そこで、「今」に集中することを説く「マインドフルネス」の考え方が生じるのですが、本当に過去と未来を切り捨ててしまっていいのか? と考えるのは、文筆家の倉下忠憲さん。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では、人間の脳にタイムトラベル能力がある意味を考え、より良い「今」とするための付き合い方を考えています。
脳の「タイムトラベル」能力と「今を生きる」ということ
イーサン・クロスの『Chatter』という本で、脳の「タイムトラベル」能力が解説されていました。
まず脳には、デフォルトモード・ネットワーク(DMN)という状態があります。その状態は何か特別なことに注意が向いているのではなく、ぼんやりと雑念にふけっているような状態です。で、その状態が一日のうちで多くの割合を占めています。
では、その「雑念」において脳が何をしているのかと言えば、かつて自分がやったことを反芻し、反省し、修正しようとしたり、これから自分がやろうとしていることを想像し、計画したりしているのです。前者は「過去」ですし、後者は「未来」と言えるでしょう。
これが脳のタイムトラベル能力というわけです。私たちは目の前にあるものに注意を払うことから退避し、「過去」や「未来」に思いをはせることをしょっちゅう行っているわけです。
マインドフルネスはそうした退避を抑制する行為だと言えます。過去や未来に思いをはせることを止めるのだから、結果的に注意は「今」に向きます。単純な理屈ですね。ここから「今を生きよう!」というきらきら光るポジティブなメッセージなども生まれてくるのでしょう。心理的吸血鬼な私にとっては灰になってしまいそうなメッセージです。
■極端な主張
たしかに脳のタイムトラベル能力を止めてしまえば、「過去」や「未来」に思いをはせることなく、「今」に意識を集中できます。さらに、グタグタと過去の出来事を悔やんだり、もやもやと未来の出来事に悩んだりすることも止められるでしょう。こうした心の葛藤が心理的にネガティブな影響を強く与えることを考えれば、そのような抑制に効果があることは十分理解できます。
でも、本当に「今」だけに生きればそれでいいのでしょうか。あたかもそれは、指を切ってしまう可能性があるから、世界中から包丁を無くそうといっているようなものです。あまりにも極端すぎる主張。たしかに包丁を無くせば「包丁で指を切る可能性」はゼロになるわけですが、包丁によって得られる利便性は失われます。そして、包丁以外で指を切る可能性は相変わらず残っています。
現実的な(というかプラグマズティックな)解決は、包丁を慎重に使おうといったことでしょう。利便性は受け取りつつも、被害は被らないようにすること。単純に言えば「うまく使おうとする」こと。それが極端ではない主張になります。
この記事の著者・倉下忠憲さんのメルマガ
■「今」以外を捨ててもいいのか
脳のタイムトラベル能力も同じです。たしかに私たちは「過去」や「未来」について益体もない考えを抱き続けることで、今目の前の現実を生きる力を喪失してしまうことがあります。これはできれば回避したいところですし、それが不可能であれば悪影響を緩和したいところです。でも、だからといってその能力すべてを遮断することが絶対的な解だという道のりを歩むのはあまりにいびつでしょう。
進化論的に言えば、脳がそうした能力を持っているのは私たち人類の生存にとって有利だったからだと説明できます。でも、そうした理論を持ち出さなくても、過去起きてしまったことから何も学ぼうとしない人、未来起きることについて何も対策・準備しない人が、どういう結果を出し続けるだろうかは容易に想像がつきます。
失敗しても気にしない、人を傷つけても気にしない、人に損害を与えても気にしない……だってそれらはすべて「過去」のことであり、存在はしないものなのだから。そういう理屈が成り立つでしょう。
同様に、少しのケアで対処できること、少しの段取りでマシになること、少しの準備で楽になること、積み重ねることで達成できることも一切無視されます。だって、それらはすべて「未来」のことであり、起こるかどうかなんてまったくわからないからです。そんなことよりも「今」を生きよう。そんな人と一緒に何かをやりたいでしょうか。
言い換えましょう。脳のタイムトラベル能力は個人の行動を最適化するための能力のように思えますが、人間が社会的動物であることを考えれば、それは「他の人とうまくやっていく」能力でもあるのです。よって、脳のタイムトラベル能力を抑制すればするほど、そうした結果も望めなくなってきます。
もちろん、それを望んでいるならば何も問題ありません。他人がどうあろうが、自分の心の平穏さえ手に入るならどんな対価でも支払う、という価値観を持っているならばそれも一つの選択でしょう。しかしそうでないのならば、そうした能力を捨てるのではなく、むしろ「うまく付きあっていく」方法を模索する方が賢明なはずです。
この記事の著者・倉下忠憲さんのメルマガ
■今を生きる
「過去」や「未来」は存在しません。存在論的な実存性はなく、単に認知的にそこにあるだけです。
この前提を踏まえた上で、「存在しないのだから、そんなものは捨ててしまえ」というのは話が逆でしょう。だって存在しないのですから捨てるも何もありません。むしろ人間の脳はそうして「存在しない」ものに思いをはせる能力を持っていると理解し、その能力をどう使っていけばいいのかを考えるのがさまざまな意味においてまっとうだと思います。
ようするに、「そんなものは捨ててしまえ」主義は、「人間であることをやめれば、人間的苦悩からは開放される」と言っているに過ぎません。それって本当に素晴らしいことなのでしょうか。
個人的に思うのは、「今を生きる」が極端に主張されるとき、その中身は「今だけを生きる」となっています。「今」以外を切り捨ててしまっている状態です。
一方で、「今を生きる」を健全にまっとうするならば、その中身は、想起する過去と想像する未来を引き受けた上で今現在を生きること、つまり折り重なる「今」の中を進んでいくことを意味するのではないでしょうか。過去に重点を置きすぎず、未来にも重点を置きすぎず、しかし両方に目を配って今を生きていくこと。これが人間的な「今を生きる」だと思います。(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2023年3月27日号より一部抜粋)
この記事の著者・倉下忠憲さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com