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MOSCOW, RUSSIA - AUGUST 10, 2021: Christian Dior Paris brand retail shop logo signboard on the storefront in the shopping mall

実家倒産、母の急死、世界恐慌…波乱万丈の天才クリスチャン・ディオールを支えた「大切なモノ」

ファッションに詳しくない人でも、名前くらいは知っている世界的有名ブランド「クリスチャン・ディオール」。しかし、彼の人生は驚くほど波乱に満ちたものでした。今回、メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんは、 そんなディオールの山あり谷ありの人生を支えた「大切なモノ」について紹介しています。

クリスチャン・ディオールは友情のブランド

クリスチャン・ディオールはファッションに疎い筆者でも名前くらいは知っている人気のブランドですね。

さぞやお洒落な人生を送ったのだろうと思っていましたが、彼の生涯は、ブランドイメージからは想像もつかない波乱万丈さでした。

ディオールは1905年、フランスのノルマンジー地方マンシュ県、グランヴィルで生まれました。父親は化学肥料工場を経営し、裕福な家庭でした。ディオールは画家を志して美術学校へ進学しようとしたのですが、父親に猛反対されて挫折します。公務員になれという父親の希望で大学の法学部で学びました。しかし、画家への夢断ち難く、父親にお金を出してもらって画廊を経営します。

ディオールは審美眼を備えていたようで画廊は成功しました。ところが、好事魔多しです。弟が精神を病み、母親が急死しました。そこへ、世界恐慌が襲いかかります。父親の化学肥料工場は倒産しました。恐慌はディオールの画廊も押し流してしまいました。

ディオールは26歳、順調な人生が暗転したのです。職も財産も失った彼は友人の家を転々とします。しかし、弱り目に祟り目、結核を患ってしまいました。唯一の慰めは、友人に恵まれていたことです。友人たちの勧めに従い南フランスで静養生活を送り、結核を克服しました。

健康を回復したディオールはパリに戻りましたが30歳の無職男です。彼は職探しを始めます。職種、会社、選り好みなどしていられませんでした。絵画、芸術とは無縁の地味な事務職であろうと面接を受けました。しかし、実社会での仕事は未経験、資格もないデイオールを雇う会社などはありません。面接を受けては落ち、彼は前途に希望を見出せませんでした。

そんなある日、服飾デザイン会社の面接を受けます。事務職に応募したのですが、結果は不採用。その時、デイオールは服飾デザインの現場を見て、少年時代、グランヴィルのカーニバルで見た衣装と自分のデッサンを思い出します。

そうだ、服飾デザインだ。

ディオールはデッサンを始めます。

デザインやデッサンの基礎から学んだディオールは水を得た魚のように何百枚もデッサンを描きます。すると、幸運の女神が微笑みました。破産寸前に知人に預けていた絵画が高値で売れたのです。デザインに専念できるだけの生活資金を得ることができました。彼は夢中になってデッサンを描き、友人たちの助言を受けます。

えてして才能あるクリエイターは自分に自信があり、他人の助言に耳を貸さないものです。耳を貸さないどころか助言相手を罵倒したり、絶交したりすることも珍しくはありません。しかし、ディオールはお坊ちゃん育ちゆえの素直な性格で、多くの助言を受け入れデッサンの質を高めてゆきました。そんな彼ゆえ、友人たちも応援をします。メゾンや服飾関係の雑誌に紹介してくれました。

ファッション業界において、デッサン画家に過ぎなかった者が一流のメゾンにデザイナーとして雇われるなど異例中の異例でした。

ところが、そこにまたも大きな障害が生じます。第二次世界大戦です。1939年、ナチスドイツと戦争状態になったフランス陸軍からディオールは徴集されました。翌年、ドイツ軍によってパリは陥落、間もなくフランスは降服しました。フランスはナチス占領地区と非占領地区に分割(1942年には全土が占領される)されました。ディオールは非占領地区で従軍していたため、一旦、南フランスで暮らしました。

やがて、リュシアン・ルロンが主宰するメゾンに雇われます。ルロンはクチュール(仕立て業者)協会の会長を務める実力者でした。ルロンのメゾンにはピエール・バルマンという優秀なデザイナーも属していました。ディオールはデザイナーとしてバルマンと切磋琢磨します。

ナチス占領の悪夢から解き放たれ、第二次世界大戦が終わると、自由な仕事ができると喜んでいた矢先、ディオールは衝撃を受けます。バルマンがルロンのメゾンを辞め、独立してしまったのです。バルマンはディオールより9つ下でした。独立すると多くの顧客を掴み、独立は大成功でした。ディオールの胸はざわめきます。いくら自由にデザインができるといっても、ルロンの下でのこと。あくまでルロンの気に入った範囲での自由なのです。

すると、翌年、彼を繊維業界の大物、マルセル・ブサックが後援し、メゾンを立ち上げます。ディオールは42歳でした。独立に当って彼は躊躇います。多くの友人たちに相談をしました。友人たちは諸手を挙げて賛成です。ディオールはブサックのお金と友人たちの励ましにより独立しました。

独立するとディオールは才能を発揮、1947年、最初のコレクションを発表しました。以来、斬新なデザインによって女性の心をつかみ、1957年に死去するまでパリのオートクチュール界に君臨しました。クリスチャン・ディオールは大勢の友人に支えられた天才です。彼の才能、人柄が友人を集め、才能を開花させました。

ディオールの人生とブランドは彼の才能と友情の産物だったのです

image by:KatMoy / Shutterstock.com

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歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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