多くの文人達に愛され、その作品にも描かれた現在の文京区周辺地域。明治の文豪として知られる森鴎外もこの地に住み、数々の名作を世に送り出しました。そんな才人が作中に記した道を散策したというのは、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」学長で、障害者総合支援法に基づく就労サービスのひとつである「就労継続支援B型事業所」の運営者でもある引地達也さん。引地さんは自身のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』で今回、甥とともに鴎外の『鴈』の舞台を辿った様子を、心情を交えつつ綴っています。
東大から無縁坂へ─散歩で出会う明治の私
現代には珍しい古風な「文学思考」を携えている甥っ子が上京し、森鴎外の『鴈』の舞台となった東京大学本郷キャンパス横の無縁坂を訪れ、周辺を散策した。
この作品で登場する明治期の不忍池や上野の東照宮、東京大学の鉄門は、その名称が受け継がれ、その地にあった往時の姿を想像させてはくれるが、明治は遥か昔で、その時の空気感までイメージは及ばない。
ただただ、雁の文面とにらみ合い、ノスタルジックな心持を文面に寄せていくしかない。
明治期の無縁坂を往来した和装の東大生の姿が鮮明に浮かんでくる時、学問に打ち込み、未来を創造する野心と好奇心に突き動かされた彼らの群像は自分を少し勇気づけてくれるような気がする。
そして雁の物語はちょっとした時間のすれ違いが人生の形をも決めていく、その不思議な偶然も愛せるような思いにさせてくれるのは、私が齢を重ねたからだろうか。
物語の主人公、医学生の岡田は体躯の良い美男子。
その彼の散策の道程が詳細に記されている。
岡田の日々(にちにち)の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍(しのばずの)池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。
それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑(にぎや)かな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入(はい)って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。
時は明治13年だから、明治11年の西南戦争で西郷隆盛が亡くなり、翌12年には紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、袂を割った明治維新の功労者が消えて、新しい時代に向かう風が吹いていたかもしれない。
東京大学の設立が明治10年であり、物語はその3年後である。
岡田は無縁坂に住む高利貸しの妾の若い女性を見かけるようになり、この女性も岡田の雰囲気に惹かれるのだが、お互いは言葉も交わさぬまま、軽い会釈だけの間柄が続く。
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スマートフォンで即座にコミュニケーションが取れる時代から見ると、それは不便かもしれないが、想像の中でお互いの関係性が片務的に形成されていくのは、その不便さゆえに幸せだったような気もする。
他人が言葉や手紙以外で気持ちを通じ合うことは艱難な時代だからこそ育んできたコミュニケーション文化は、幸せを希求するところから始まっている部分もある。
作品の文面はその形成過程とも受け止められて面白い。
相手の気持ちを一瞬のしぐさから想像し、悲嘆にくれたり、喜んだりする人間の感情は、幸せや不幸せをもたらすものだが、お互いが相通じる瞬間を求めて、人は出会い、別れて、そして出会いを繰り返すのかもしれない。
岡田の辿った道を歩きながら、休日の静かな東大の中で甥っ子と語り合う。
或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖(とざ)されるので、患者の出入する長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので、今春木町(はるきちょう)から衝き当る処にある、あの新しい黒い門が出来たのである。
赤門を出てから本郷通りを歩いて、粟餅(あわもち)の曲擣(きょくづき)をしている店の前を通って、神田明神の境内に這入る。そのころまで目新しかった目金橋(めがねばし)へ降りて、柳原(やなぎはら)の片側町(かたかわまち)を少し歩く。
それからお成道(なりみち)へ戻って、狭い西側の横町のどれかを穿(うが)って、矢張(やはり)臭橘寺の前に出る。これが一つの道筋である。これより外の道筋はめったに歩かない。
東大から赤門のある本郷通り出れば、今やビルが乱立する大都会だが、鴎外が記した場所をたどれば、いつの間にか気分は明治になる。
学問の徒となってイメージを膨らますと、鴈の舞台に舞い降りた「明治の私」になっていく。
齢を重ねるこのタイミングに、やはりこの散歩は面白い。
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