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現役教師が問題提起。運動会の「応援合戦」は、果たして“競技”なのか?

運動会の季節ですね。コロナ禍ではまともにできなかった運動会が少しずつもとのように戻ってきたことで意見も分かれているようです。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、学校教育の観点から運動会の問題点・改善点を語っています。

運動会の季節。応援を「競争」すべきか否か?

運動会シーズンである。

コロナ禍においては実施できなかった様々なことが、またできるようになった。

ここへの賛否は分かれる。

以前のようにやれて嬉しいという意見と、なぜなくしたのにまた戻すのかという意見である。

運動会はその多くが運動能力の「競争」をベースとする。

身体のパフォーマンスを競い合うことが中心の行事である。

勝敗をつける場面が多くなるのは必然である。

さて、かつて「徒競走で全員手を繋いでゴール」というものへの批判が巻き起こった。

これは確かに、おかしいことである。

なぜならば「競走」が、その字の表す通り速さを競うことを目的としているからである。

本来的に、かけっことは「より速く」を楽しむものなのである。

全員一斉にゴールしたら、競うことにならない。

物事の本質・目的を見失った、本末転倒な話である。

もし走ることへの順位付け自体がよくないと思うのであれば、徒競走ではない種目にすべきである。

徒競走を教育手段の一つとして選択した時点で、自動的に走力への順位付けはくっついてくるのである。

徒競走とは、本来それを楽しむものである。

「競技」は基本的に順位がつくものであり、そこが本質である。

一方で、本来競争すべきものでないものに対しては、競わせての順位付けは不要である。

運動会の「ダンス」に順位や勝敗がつかないのは、あれが「表現」であって「競技」ではないからである。

他から抜きん出ての優勝を目指す「ダンスコンテスト」とは全く目的が異なるのである。

さて、今回提議したいのが、「応援合戦」の在り方である。

つまり、応援に順位をつけるかどうかである。

応援とは、競技なのか。

これは明確に違う。

応援は次のように定義されている。(明鏡国語辞典より)

1 困っている人やがんばっている人をはげまし、助けること。

2 競技などで、声をかけたり拍手をしたりして、味方の選手をはげますこと。

つまり応援の本質とは「励まし」である。

勝敗に関わらず、がんばっている目の前の仲間を励ますことを目的とした、爽やかな行為である。

しのぎを削る競争の中の、一服の清涼剤ともいえる。

しかし応援「合戦」になった途端、合戦とは即ち争いであるから、それそのものが競技になる。

味方のための励ましという本質の方ではなく、他と競い勝つことが目的になりがちである。

(この本質の転換については、各種「コンクール」についても同様である。)

そこで、実際に子どもに尋ねる。

「応援合戦に順位をつけなくするのはどうか」

私の経験上だが、多くの場合、特に応援団に立候補するような元気のいい子どもたちから、強い反対の声が上がる。

活発な子どもたちほど、ここに「競争」を求めている。

その方が、「燃える」ということである。(単に今までのものを変えたくないという気持ちもあるかもしれない。)

応援の本質とは異なるが、授業と同じで子どもの側が大人の設定した「ねらい」を考えることはない。

さて、そうして応援で「勝つ」ことを目指して練習することになる。

結果的に「勝つ」のは1チームだけである。

その勝敗判定は、精査された採点基準でもなく、「応援のプロ」が行う訳でもない。

見た人によって、その結果はバラバラである。

平たく言うと、審査する立場の人に「何かいい」と思われたチームが勝利する。

ここに違和感が生じる。

圧倒的パフォーマンスで、誰が見ても大方ここだろうという場合は、まだ問題ない。

問題は、ほとんどの場合、そこまでの差はつかないという点である。

多人数が全力でやった結果であればあるほど、平均化するからである。

どこも素晴らしい出来で甲乙つけがたい(正直差がわからない)という場合でも、明確に順位がつく。

評価の妥当性に欠くところがあるのは否めない。

その結果を受け止めるというのも大切だと言えば大切だが、いつでも釈然としないのは事実である。

そもそも「競技」ではない応援を競技化しているという根本に無理があるのだから、致し方無いというしかない。

(その点が、徒競走等の本質が競争で順位がはっきり見えるものとの明確な違いでもある。)

また、令和のこの時代に、あの形の一斉一律行動は必要な教育なのかも考えどころである。

応援合戦は、旧来の教育方法として最適だったものである。

全員一律、一斉行動をし、雄叫びを上げさせて奮い立たせる。

(今でもライブやスポーツ観戦の際に使うかもしれないが、それは多分学校でやらなくても自然にできる。)

一律行動が苦手、あるいは大声や騒音が苦手な子どもにとっては、精神的苦痛を伴う行為である。

特別支援の視点での個別の対応も考えるべき点である。

応援を「合戦」にすることにも、ある面での教育的価値がある。

コンクールに価値があるのと同じである。

競う相手が存在し勝利を目指すことで、互いに高め合えるという面が確実にある。

しかし同時に、その弊害、マイナス面への検討もした上で、どちらを選択するかである。

プラスの面の大きいものほど、マイナスの面も大きいからである。

大きなプラスを求めるためには、それ相応のコストもかかる。

つまり気楽に楽しむだけという訳にはいかなくなるし、コストをかけた分、結果への責任も伴う。

また、勝敗をつけるということは、順位を付けるということにもつながる。

この場合、勝者と敗者を生んで、結果を分断することが集団全体にとって本当にいいかどうかは検討すべきである。

つまりは、教育として求めるものと、子どもの実態をきちんと検討することによって、初めて最適な選択が決まるはずである。

これは、あらゆる教育活動にいえる。

それは、本来的に競争させるべきものなのか、否か。

いつでもどちらかが正解という訳ではなく、どちらを選択するか、常に検討する価値がある。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 松尾英明 【発行周期】 2日に1回ずつ発行します。

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