MAG2 NEWS MENU

能の世阿弥と将軍・足利義満「美少年カップル」はその後どうなったのか?

現代にも引き継がれる能という文化。それを室町時代に大成した世阿弥はその美貌ゆえ多くのエピソードを残しています。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが紹介しています。

能は武士の嗜み

室町時代、能を大成した世阿弥は超美少年でした。幼い頃から父観阿弥が率いる猿楽一座に加わり、十二歳の頃、熊野神社で催した猿楽に出演し、室町幕府三代将軍足利義満に一目惚れされます。義満は十七歳、義満も花の色香に優ると評された美少年でした。世阿弥と義満は美少年カップルであったのです。

義満よりも先に世阿弥を愛した人物がいます。摂政、関白二条良基です。良基は五十代で世阿弥少年を見初め、連歌などの教養を身に着けさせました。

世阿弥を愛する余り、年老いた自分より若き権力者の寵愛を受けるべきだと義満に紹介したのです。将軍と関白という武家と公家の頂点に立つ有力者の庇護を受け、世阿弥は評判を高めてゆきます。世阿弥への羨望は複雑な形で展開されました。

義満に取り入ろうという野心と世阿弥と親しくなりたいという下心を同時に叶えようという公家たちが現れたのです。何しろ世阿弥はスーパースター、ちょっとやそっとの誉め言葉では振り向いてくれません。

そこで、彼らは世阿弥への恋情を綴った文を書き、わざと義満の目に入るようにしてから世阿弥に送りました。義満の嫉妬を見越しての処置です。義満は嫉妬にかられますが、一方で彼らの世阿弥への熱い思いも理解し、彼らを取り巻きに加えました。

やがて義満は京都の室町に花の御所と呼ばれる豪壮華麗な屋形を作り、贅を尽くした暮らしを始めます。贅沢で華美な暮らしを彩ったのは世阿弥でした。

そんな美貌により世に出た世阿弥でしたが、彼はそれに甘んずることなく、二十歳で父観阿弥を亡くすと一座の座頭となり、猿楽を進化させて芸術性を高め、能楽を完成させます。義満は優れた政治手腕と共に高い教養、美意識の持ち主でした。単に世阿弥の美形ぶりに惚れたのではなく、世阿弥の芸術的才能を見抜いたのかもしれません。

とはいえ、年齢と共に容色が衰えるのはやむを得ず、世阿弥は次第に義満の寵愛を失っていきました。それを憂いたのか彼は自著で少年の美を時の流れと共に移り変わる、「時分の花」と書いています。義満死後、世阿弥は息子の義教に嫌われ佐渡に流されました。自らの美貌に翻弄された生涯でした。

世阿弥以降、能は武士の嗜みとなりました。

室町時代ばかりか江戸時代も歴代の将軍、大名は能を観賞し、自らも舞いました。また、江戸の大名藩邸には能舞台が設けてありました。特に五代将軍徳川綱吉は大の能好きで、しばしば能を披露するのを楽しみとしていました。

綱吉は度々、大名藩邸を訪れたのですが、訪問目的は自分の能を見せたかったのです。ところが、決して上手ではなかったとか。満足するのは本人ばかりで鑑賞させられる者たちは苦痛の時間でした。落語好きの読者なら、「寝床」に登場する義太夫好きの旦那を思い浮かべることでしょう。

大名藩邸の宴がたけなわとなったところで、おもむろに大名は、「上さま、畏れ多いことにござりますが、能をひとさし舞っては頂けませぬでしょうか」と頼みます。綱吉は、「余の能なんぞは披露するほどのものではない」と一応は断ります。

ここで大名は引き下がってはいけません。七重の膝を八重に折らんばかりになって、「当家末代までの語り草に致しとうございます」と懇願します。綱吉は、「そこまで頼まれればむげにもできまい」と持参の能衣装に着替え、颯爽と能を舞ったのでした。

もちろん、能の間、居眠りなど論外、あくびをしようものならどんなお咎めがあるかわかったものではありません。大名以下家臣たちも綱吉の従者も必死で能を観賞したのでした。

綱吉が能を披露する時、誰もが、「オー、ノオ!」と内心で嘆いたとか。

image by: Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』 』

【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け