メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは、学校が「温室化」されている現状を危惧しているようです。温室化とはどんなことか?それによって子供たちの将来にどんな影響が及ぶのか?詳しく語っています。
学校の「温室化」を食い止めよう
温室育ち。蘭の花のように、守られて可憐に優美に育ったものを指す。ある意味で「お嬢様」あるいは「御曹司」という賛美でもあり、一方で揶揄的な意味ももつ。
危惧していることがある。学校が、温室化しているのである。子どもにとって全てが快適で、不快な出来事が一切起きない環境を「理想」として求められている。それも、国立や私立の特別な学校の話ではなく、公立の義務教育の学校がである。
本来、公教育というのは、遍く誰にでもという類のものである。どこかの特別な教育を指すのではない。各々がスペシャルゲストのような待遇を受けられないのは、当然である。
仮に全員が「特別待遇」になったとすると、それが「普通」になり特別ではなくなる。その場合、特別でありたい人から更に上のサービスを求められる。公共サービスや商品の一般化というのは、この繰り返しでもある。(今やスマホを一人一台持っているのが一般的というのもその一例である。)
例えば高額な学費を支払う私立学校に行けば、様々な環境設備が整っているのは当たり前である。同じものを公立に求めるのであれば、国民の理解を得て税金を上げるなどした上で、教育費への大幅な支出を求める必要がある。遍く多くの人々に何かを与えるには、想像以上の莫大な費用が必要だからである。
だから、実際の公の立場の機関はどこも、贅沢を言わずに与えられた環境を最大限に活用するよう工夫している。学校は全てを工夫と奉仕サービスで乗り切ってきた代表格だからこそ、今残業過多や業務量過多が問題になっているのである。
先に断言する。学校は、特定の観賞用の種を育てるための温室ではない。即ち、子どもをちやほやして甘やかして軟弱にする場ではない。
一見美しく咲かせたように見えても、外の環境に出したらすぐに枯れてしまうのでは話にならない。それがどうしても必要な種もあるが、人間が自然から保護しないと育たない種は、一般的とはいえない。
学校は、多種多様な子どもにとっての外の世界の入り口である。まだ弱い芽を保護する場であると同時に、来たるべき未来の社会に向けて鍛えながら育てる場である。
最初は守ってもらっていた弱々しい芽も、やがては立派な木となる。力強い大木となったその暁には、人間や他の生き物の憩いの場、拠り所となり、強い陽射しや雨から守り与える立場となる。
温室育ちではこの力が育たない。陽射しや風雨、生き物などの自然の恩恵と脅威の両方にさらされながら、そこに耐える力を育む必要がある。
健全な成長には、順境と逆境の両方が必要である。
以前に紹介した本にも、次のように書いてある。
子どもが社会的な存在として成熟していくためには、「世界からの押し返し」を経て、現実に合わせて自分を調整するという経験が絶対に必要なのです。
引用文献
『「叱らない」が子どもを苦しめる』藪下 遊・ 高坂 康雅 著 ちくまプリマ─新書 P.52
特に公立学校の使命はそこである。なぜならば、送り出す先の公の社会が、温室ばかりではないからである。学校という世界は、社会であり、家庭とは立場が違う。子どもに適切な「押し返し」を繰り返し繰り返し行う場でもある。
世に出た後も温室続きというなら、学校が温室でも構わない。実際の社会は、温室どころではない。「生き馬の目を抜く」とまではいかないまでも、それなりに頭と体を使って生き抜く必要のある環境である。
企業の側も、困惑している。ちょっと叱られただけで「明日から出社しません」「心が折れた」というかもしれない新人。(もっと酷いと、何と親から連絡が来ることもあるらしい。異常なる過保護ここに極まれり、である。)
これに対し、「辞められたら困るという」という社会的な面と「いい加減にしろ」という本音。
何故に、このような「アマちゃん」が社会に出てしまうのか。
これは、学校教育の責任である。「アマちゃん」を大量生産しているのは、温室化した学校教育そのものである。先に挙げた本にもあるように、叱れない学校にこそ原因がある。
ただ特に温室化しがちで難しいのが、不登校についての対応である。
温室でないと、行けない心と体なのだ。なるほど、そういう面がある子どもも確かにいる。
また学校、学級が滅茶苦茶で、まさに弱肉強食を地でいっているようであれば、行かないという選択肢をとるのもわかる。
しかし、である。
これも前掲書で指摘さていた問題だが、そういうこととは全く関係に、単に子どもの「何となくいきたくない」すら通ってしまうのが現代の学校だという。
前提として「学校は行くものだ」という価値観が共有されていないため、学校側はそれ以上何もできない。「学校に行くべき」時代の強い反動で、学校に行かなくてもいいという価値観が共有されすぎて、学校の温室化が過ぎた。何もできないけれどもっと何かしろ何とかしろと急き立てられ続けているのが多くの温室学校の現状である。
温室なのである。人の手が作った環境が全ての温室においては、育てる側に100%責任がある。野生とは真逆である。
この比率、バランスは考えなおすべきである。
逆にふって野生化してしまい、100%子どもの選択と責任にしてしまうのもおかしい。6歳になった後の4月に小学校に行くかどうかまで選択させる必要はない。そこは、子どもの責任どうこうなどなく、親の義務と責任100%で、行かせるべきである。
やりすぎない程度に、比率の見直しが必要である。
どこまでが家庭の責任領域か。どこまでが学校の責任領域か。どこからが本人の責任領域か。
こういうものは、きちんと法に則って考えればよい。つまりは、教育基本法である。
以下、関係条文を第2章より引用する。(引用元:文部科学省H.P.)
(学校教育)
第六条
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。
(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
ちなみに、教育基本法では教育を受ける者自身の義務や姿勢についてはふれていない。子どもたちは教育「される」側だからである。つまり、子どもが大人の施す教育に対してどんなに怠惰であっても、法自体に抵触することはない。教育を受けられる期間を過ぎた後、本人が困って後悔する可能性が大きく高まるだけである。法的に見れば、子ども自身に教育への責任比率は0%である。(ただしその後の人生の責任は本人100%の比率である。)
法的に見ても、家庭が絶対的な第一で、学校は社会教育などを含めた次点以降である。そして学びの主役で主体は確かに子どもだが、教育の主体は大人の側にある。
「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」
「自立心」
「心身の調和のとれた発達」
これらが家庭教育の領分である。
「教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われる」
「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」
「自ら進んで学習に取り組む意欲を高める」
こちらが学校教育の領分である。
こう見ると
「適切な食事や睡眠をとらせる」
「身辺のことをできるようにする」
「学校に行かせる」
といったことは全て家庭の領分である。
また
「教育課程を組み、計画的な授業をする」
「学校のルールの意味や大切さを教え、心から守らせる」
「学習意欲を高める工夫をする」
といったことは全て学校の領分である。
このように整理すると、様々な問題について、言うべきか言わぬべきかはっきりする。
忘れ物が多い。これは家庭教育の領分であり、責任である。学校があまり口出しするのは考えものである。(忘れ物をして困るのは学校ではなく、本人でなくてはならない。集金や提出物の催促は忘れ物と区別して行う。)
学校に行かない。やはり家庭教育の領分である。自分の思い通りにならない不自由さがあっても「世界からの押し返し」に耐える必要がある。学校に明らかな問題がない限り、家庭が第一義に責任をもって外の世界へ押し出さねばならない。あるいは、他に適切な学びの場を見つけてやらねばならない。(「一般」の枠に当てはまらない場合の受け皿として、特別支援学校やその他の場の存在意義でもある。)一方、押し出された後は学校の責任下である。
子どもがルールを破ったら、叱って、諭して、守るようにさせるのが学校の領分である。余程常識を外れて度を越していない限り、そのやり方自体に家庭が口をはさむのは適切とはいえない。
では、髪染め禁止の学校で「子どもが髪色を染めている」という状況はどうか。(個人的に髪染めをどう考えるかというのは全く別の問題である。一番多い、禁止か望ましくないとされる学校の場合である。)
学校には、「ルール違反なので色を戻してきなさい」と言い続ける責任がある。家庭には、髪色を戻す責任がある。社会に必要な身だしなみを整える基本姿勢は、家庭の領分である「生活のために必要な習慣」づくりに含まれるからである。
この問題の場合の難しさは、ルール違反に対して直接手を出せない点である。必ず家庭の理解と協力が必要になる。そして家庭の側の個性についての観に髪染めやピアスも入ると思っている場合、そこの観のすり合わせから取り組まねばならない。
そして大人相手はほとんどの場合、これは徒労に終わる。本来は指摘されてもなおルールに従わない時点で完全にアウトである。しかし大人の側がそういう正しい変更手続きをこれまでに踏んだことがない場合が多く、そもそもの理解ができない。結局感情論で終わるのがオチである。(感情論勝負の場合、無理難題を無茶苦茶言う方が勝つ。正当な論理の法の下に存在する公の立場に勝ち目はない。)
話を子どもに戻す。
何かにつけて自分からやろうとしない。これは「自立心」の問題であり、家庭教育の領分である。やる場を提供するのが学校の責任領分であり、やるからやらぬかまでは責任をもてない。
逆に、自立心ある子どもが存分に自分の力を発揮できる場を提供するのが学校の仕事であり責任である。例えば簡単すぎてつまらない、待たされてばかりの授業は、ここの責任を果たしていないといえる。
究極に自立してくると、全ての学びが自分のためだとわかり、全てに感謝する子どもになる。自分のために学び、そこによって得た力を社会の役に立てようとする子どもである。教育基本法の目的に完全合致した子どもの状態である。
真逆方向の最悪状態が、全てを他人のせいにして、文句ばかりを言い、学ぶことを放棄する子どもである。自分のために世界があると勘違いしていて、思い通りにならないと暴れるかふてくされる。完全な教育の失敗である。
温室育ちは、このダメな方向へ行かせる可能性を大幅に高める。しかし世界は、温室ではない。逆にこの世界を温かいものにする子どもたちを育てるのが、教育の使命なのである。(ちなみに温暖化問題の話ではない。)
学校の温室化をやめよう。もっと、子どものもつ強さを信じて、たくましく育てよう。保護する割合を減らして、自分で生きる割合を増やそう。
『不親切教育のススメ』の主張は、これからまだまだ広めていく必要がある。
学校の温室化を食い止めることで、逆に教育が本当に温かいものになっていくのではないかと考える次第である。
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