新しいお札の顔が決まったばかりですが、昭和生まれの人なら五百円札の岩倉具視(ともみ)を覚えているのではないでしょうか。現代史の教科書には必ず出てくる人物ですが、なぜか歴史小説ではダーティーなイメージで描かれることが多いようです。『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』の著者である作家の早見俊さんが、改めて彼の人生を振り返り、その理由を語っています。
五百円札 岩倉具視
七月三日から新しい紙幣が発行されますね。
一万円札は渋沢栄一、五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎が描かれます。筆者の年代の読者なら記憶があると思いますが、かつて五百円札が発行されており、岩倉具視がお札の顔でした。
子供の頃、お正月に岩倉具視を見るとがっかりしたものです。年に一度の楽しみ、お年玉を貰った時です。お年玉袋を開け、伊藤博文の千円札が出てきたら喜び、岩倉具視の五百円札だと肩を落としたのです。ちなみに板垣退助の百円札も流通していた頃で、これが一枚だった時には、くれた大人を恨みました。
我ながら実に不謹慎でした。そんな筆者が岩倉の偉大さを知るのは歴史に興味を持ち、歴史小説や歴史解説書を読むようになった中学生の頃です。
ただ、小説における岩倉は明治維新に貢献はしたが、西郷隆盛や坂本龍馬のようなヒーローではなく、陰謀に長けた腹黒い公家に描かれていることが多く、私もそんなイメージを抱きました。岩倉をダーテイヒーローに仕立てたのは孝明天皇毒殺説です。徳川幕府寄りの政治姿勢を取っておられた孝明天皇は討幕派には最大の障害でした。その孝明天皇が慶応二年(1866)の十二月に天然痘で崩御なさり、討幕派にとってタイミングがよ過ぎるため、毒殺説、そしてその首謀者に岩倉が挙げられるのです。
もちろん、俗説で事実ではありません。孝明天皇が崩御された頃、岩倉は政治活動を封殺されていましたし、彼のために弁護すれば岩倉は心より孝明帝を尊崇していたのです。では、何故岩倉が孝明天皇毒殺の汚名を着せられたのかというと、天皇の逆鱗に触れ、政治生命を絶たれたからです。
では、政治生命どころか命も危うかった岩倉がいかにして復権を遂げ、明治維新の功臣となり、日本初の国葬で葬られる生涯を送ることができたのでしょう。
岩倉は文政八年(1825)公卿堀河康親の次男として誕生、幼い頃より公家らしからぬ荒っぽさゆえ、「岩吉」というあだ名がつけられました。
下級公家でありながら持前の胆力と不断の努力、類稀なる行動力でめきめきと頭角を現した岩倉は朝廷政治の表舞台に立ち、活躍を始めます。黒船来航という外圧に加え、幕政における絶対権力者大老井伊直弼が暗殺されて幕府の威光は失墜、日本は国難を迎えます。時はまさしく欧米列強が覇を競い、アジアの植民地化を進めていました。心ある者はうかうかしていると日本も欧米列強の餌食となるという危機感を強めます。
危機感を募らせるのは幕府も同じで、失墜した権威を回復しようと、十四代将軍徳川家茂の御台所に孝明天皇の妹和宮を迎えようとします。いわる公武合体運動の始まりです。賛否両論が沸騰する朝廷にあって、和宮降嫁は幕府に貸しを作り、幕府は朝廷の下で政を行っていると天下に認知させる絶好の機会だと岩倉は天皇に上申しました。岩倉の上申を容れた天皇は和宮の降嫁を認めました。岩倉は勅使として和宮の江戸下向に随行します。
下級公家に過ぎなかった岩倉は天皇の信頼厚い延臣となって岩倉本人も鼻高々でしたが、奢れる者久しからず、というより、時代のあまりにも急激な変化により、岩倉は転落します。時代の機運は尊皇攘夷に加え、反幕府の風潮が高まったのです。
和宮降嫁を推進したことで岩倉は幕府寄りと見なされ、岩倉を嫌う公家たちから排斥運動が起きます。彼らは岩倉を幕府に媚びる奸物だと弾劾し、天皇もこれを受けて岩倉に蟄居、官職を辞し出家するよう命じました。勅使として江戸に向け京都を出発したのが前年の十月、失脚したのは一年と経たない文久二年(1862)の八月のことです。
失脚しただけではなく、岩倉は尊皇攘夷派の志士たちから命を狙われます。このため、京都の郊外、洛北の岩倉村に隠棲しました。一切の活動を禁じられた岩倉は、こうして過去の人となったのです。結局、岩倉は慶応三年(1867)の十一月に赦免されるまで、五年以上蟄居生活を送りました。この間、時代は激動します。蚊帳の外に置かれた岩倉でしたが決して腐らず、信頼する同志の公家たちから情報収集し、自分の考えを文章にして他日を期しました。岩倉の信念と地道な努力はやがて志士たちに伝わり、岩倉村の家を来訪します。
佐幕派の奸物とみなされていた岩倉は地道な文筆活動によって徐々にイメージを変え、岩倉を敵視していた志士たちとの交流が始まったのです。志士たちも朝廷工作に行き詰まっていた事情もあります。文久三年(1863)八月十八日の政変で三条実美以下七人の尊皇攘夷派公卿が失脚、長州藩に落ちて以来、朝廷は幕府と薩摩、会津が牛耳っていました。討幕に加担する公卿はいなくなっていたのです。
佐幕派の奸物から脱した岩倉の噂を聞き、ぽつぽつと訪れた志士の内、キーマンになったのは中岡慎太郎と坂本龍馬です。中岡は岩倉とじっくり語らい、噂とは大違いに深い知識と尊皇心の持ち主だと感服します。岩倉の言葉には決して上辺だけではない真実がありました。隠棲して研ぎ澄まされ磨かれた時局を見る目、いざという時には命を惜しまぬ胆力、普通の公家にはない迫力を中岡は感じました。
中岡はすっかり岩倉に魅了され、坂本龍馬を伴って訪れます。龍馬も岩倉に引かれました。龍馬は人が良く、感心した相手を他人に紹介したがります。龍馬のことです。西郷や大久保に岩倉がいかに優れた公卿か、見方につけると心強いかを熱っぽく語ったことでしょう。
この二人に理解されたのがきっかけとなり、討幕派の志士たちに岩倉具視の名が浸透していきました。
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