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一風堂をここまで有名店にさせた転機は、あの「ラーメン博物館」だった

福岡発祥で、ラーメン業界に革新を起こしてきた店「一風堂」。力の源ホールディングス会長兼ファウンダーの河原成美さんは、いったいどのような戦略をとってきたのでしょうか。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、デザイナー・コシノジュンコさんと河原さんとの対談を紹介しています。

ラーメンの名店「一風堂」の原点

ラーメン激戦区・福岡発祥の人気店「一風堂」をはじめ、ラーメン業界に革新を巻き起こしてきた力の源ホールディングス会長兼ファウンダーの河原成美さん。

道なき道を切り開き、世界にその名を轟かせるに至った資質とは何か。同じく世界を舞台に存在感を示すデザイナー・コシノジュンコさんとともに語り合っていただきました。

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<コシノ>
そもそも河原さんはどうしてラーメン屋さんになろうと思ったの?

<河原>
僕の商売のスタートは、27歳の時に福岡市内で立ち上げた5坪のレストランバー「アフター・ザ・レイン」でした。

その店を軌道に乗せて30代に入ると、もともと好きだったラーメン屋になりたいと思って、修業に入ったんです。でも、当時の福岡にはかっこいいラーメン屋がなかった。皆、うらぶれていた。

<コシノ>
ラーメンといえば、屋台をイメージする時代でしたね。

<河原>
そう。ファッション性も何もなかった。若者、特に若い女性から見ると、当時のラーメン屋という職業は「臭い・汚い・かっこ悪い」というイメージだった。

<コシノ>
ああ、3Kね。

<河原>
だから、「女性が集まる、おしゃれでかっこいいラーメン店」というコンセプトで「博多 一風堂」を創りました。1985年、32歳の時です。

<コシノ>
一風堂は本当にかっこいいですよ。「おしゃれをしてラーメンを食べに行くんだったら一風堂」という感じ。

<河原>
僕は「3」という数字が好きなのですが、27歳で商売を始めた時に、「3年間は休まない」「売り上げゼロの日をつくらない」「35歳までには天職に就く」という、自分自身に対する3つの決め事をつくったんです。

35歳までにラーメンという天職に出会って、3つの決め事は達成できたのですが、特に「3年間は休まない」を守れたのがよかったなといまでも思います。

<コシノ>
創業時はお休みなしで働いた?

<河原>
はい。台風の時も、盆も正月も、休みなく店を開け続けました。3年経った時に、「河原成美もやればできる」と、内なる自分から理解を得られたように思ったんです。そこから人生の扉が開いていったと感じています。

でも、37歳の頃に「店は4軒になったし、これくらいでいいのかもしれない」と、目標を見失い、経営がうまくいかなくなったんです。

転機になったのは1994年、42歳になる年、横浜にできた「ラーメン博物館」から出店の声が掛かったことでした。オープン時にメディアに取り上げられ、一風堂も全国的に知られるようになったんです。大手の広告会社が試算したら、16億円相当のコマーシャル効果があったそうです。

後に『TVチャンピオン』の「全国ラーメン職人選手権」に出場して3連覇することができたのも、ラーメン博物館があってのことですし、ニューヨークや香港といった海外に進出していくきっかけにもなりました。

<コシノ>
メディアの力もあったと思うけど、河原さんのように誰もやってないことをやるというのが大切ですね。河原さんはオリジナリティーを持っているから成功できたんですよ。

でも、世の中で儲かっている人って二番煎じなんですね。先駆者がやったことをちゃっかり真似する人たちがしっかり儲けている。

<河原>
ただ、それを悔しがっていても仕方がないと思う。やっぱり、僕は自分に誇りを持って仕事をしていきたい。

<コシノ>
そこです。結局、自分の仕事への誇り、オリジナリティーを持っている人は、国内で勝とうが負けようが、世界に堂々と行けるんです。

(※本記事は月刊誌『致知』2019年8月号 特集「後世に伝えたいこと」から一部抜粋・編集したものです)

image by: beeboys / Shutterstock.com

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