400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

 

「永徳」の時代 ~天才現る~

元信亡き後は1467年の応仁の乱から100年続いた戦乱の世になります。そのような時代に狩野派で異彩を放ったのは元信の孫永徳でした。天才の誉れ高い永徳は、天下人信長、秀吉の心をとらえ時代の寵児になりました。そのため彼の多くの作品は戦乱によって消失してしまっています。わずかに残る作品の1つは大徳寺の聚光院に観ることが出来ますが、残念ながら非公開寺院です。

聚光院は戦国武将の1人、三好長慶の菩提寺で茶道の三千家の代々の墓所がある由緒ある場所です。この寺院に大切に保存されているのは、美術史に残る名作中の名作四季花鳥図襖」です。狩野派の頂点に君臨した永徳の傑作です。

天才永徳は、大坂城、安土城、聚楽第(秀吉の邸宅)など国家事業というほどの大作を次々に手掛けました。国宝上杉本洛中洛外図屏風」は、信長天下人になるため政治的駆け引きとして上杉謙信に贈ったという名作中の名作です。これは今も大切に山形県米沢市の上杉鷹山(ようざん)記念館に収められています。

信長は上杉謙信と戦っても勝ち目がないと思い、貴重な美術品を贈りその権力を財力をもって誇示しようとしたとも言われています。永徳の作品当時最高級の美術品とされ当時の武将たちステイタスシンボルとなっていたのです。

さて、天下人を虜にした永徳の画法とはいったいどのようなものだったのでしょう?

聚光院の「四季花鳥図襖」には梅の巨木が大地をわしづかみにするように立っている様子が描かれています。そして、その幹や枝はS字型に曲がりながら画面の外に突き抜けています。

描かれる対象物が原寸大かそれ以上に大きく描かれているのが永徳の特徴です。このようなダイナミックな画風を大画(たいが)方式といいます(モチーフを実物大かそれ以上に大きく描く方式)。スケールの大きさ天下人の持っていた野心のようなものに重なっていったのです。

そして、天下人のバイタリティー上昇志向永徳の絵画最高級の美術品にしていったのです。上向きに勢いよく伸びる枝は天下人の野心に通じ、永徳独自の画風は下剋上に生きる武将の野心に合致したのです。

永徳は信長や秀吉の城の障壁画を手掛けるときは自分の家を弟に預けたといいます。もし天下人が気に入らないものを描いたときは首をはねられる覚悟を持っていたというのです。当時は絵師といえども、常に生死を感じながら命がけで描いていたことが伝わってくるエピソードです。

聚光院にはもう1つ永徳の代表作が残されています。国宝琴碁書画図(きんきしょがず)」です。これは、琴を弾く人、囲碁をさす人、書をしたためる人、絵画を描く人の4人が描かれた絵です。古代中国ではこの4つのたしなみがある人が最高に教養のある人とされていて、その様子を描いているものです。この絵はとても緊張感を感じる絵で、まさに永徳が命がけで描いている緊迫した筆遣いが伝わってきます。

そんな大活躍の天才絵師永徳は突如働き盛りの48歳で亡くなってしまいます。全盛期のほとんどの時間を秀吉の仕事を掛け持ちして手掛けているうちに過労死したと言われています。

永徳の絵画は天下人に好まれただけに大坂城、安土城、聚楽第などに多く存在しました。そのためそれらの建物は戦でことごとく焼失し残されたものはごくわずかしかありません。とても残念なことではありますが、永徳の存在残された数少ない作品日本美術史に今も燦然と輝いています

さて、時代は戦国の世から天下分け目の関ケ原の戦いへと移り変わります。関ケ原の戦いのときに取った作戦とはどのようなものだったのでしょうか?

1590年、永徳が急死し、1598年には狩野派の最大のパトロンであった秀吉も亡くなってしまいます。世は天下分け目の関ヶ原の戦いが迫っている時でした。次の権力者は徳川か? 石田光成率いる豊臣か? 朝廷か? といった時、狩野派はどう生き残っていったのでしょう?

政権の行方は狩野派にとって組織の存亡にかかわる一大事でした。狩野派存続のために取った生き残り戦略はそれぞれに担当の絵師を配置することでした。三者のうちどのものが政権を取っても存続できるようにしたのです。これを三面作戦といいます。

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