400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

 

「山楽」の時代

三面作戦で京都に留まった狩野派の絵師の中で京都で狩野派の本流受け継いだのは山楽でした。嵯峨大覚寺には豊臣側についた狩野山楽の作品が残されています。

「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」 (大納言近公任 百人一首)

平安時代に藤原公任(きんとう)が詠んだ百人一首に撰ばれている一句です。嵯峨天皇が観月のために造営した大覚寺の大沢池のすぐ近くに今もその遺構が残る名古曽(なこそ)滝があります。名古曽滝の「なこそ」と名前こその「名こそ」が掛詞になっています。有名な滝の水が枯れることと、人の名声もいつかはなくなってしまうという無常を詠んだ有名な歌にゆかりのある古刹です。

大覚寺では山楽の代表作牡丹図襖」を実際に観ることが出来ます。牡丹を原寸大に描く方式は永徳の大画方式を受け継いでいるのが伺えます。牡丹とは対照的に岩が幾何学的に描かれていてリズム感を付けているあたりは永徳とは違う山楽の特徴と言えるでしょう。

山楽は永徳の画風を受け継ぐ血縁関係ありません。秀吉が部下の子供だった山楽を狩野派に弟子入りさせたのです。関ヶ原の戦いの時は、絵師として技量を発揮した山楽豊臣方につくことになりました。豊臣家が滅んだ後は、山楽はもともと武士の身分だったので徳川から豊臣家の残党として追われることになりました。天下人が徳川に代わってしばらくの間は、命を狙われ、息をひそめて暮らす以外ありませんでした。山楽は朝廷や公家に助けられながら、命拾い絵師として京都を中心に活躍することになり京狩野の祖と呼ばれるようになりました。

彼は永徳をこの上なく尊敬し、ずっと永徳の後継者として自負しその技量を継承していきました。大覚寺を訪れた際は山楽が描いた「紅白梅図」を観てみて下さい。樹木の太さ、たくましさなどは永徳そのものといった画風で、彼がいかに永徳を慕っていたか伝わってくる作品です。

江戸末期、王政復古の大号令が出され、大政奉還が行われたのは二条城二の丸御殿でした。一面に描かれた狩野派の障壁画が奇しくも武家社会の終焉を見届ける運命にありました。この時、400年続いた絵師集団狩野派が最強のパトロンを失った瞬間でもありました。

昨年、「(まき)に白鷺図屏風」という狩野派の絵画が京都でみつかりました。幹の陰影や松の描き方から京狩野(きょうがのう)の祖、狩野山楽に違いないと言われています。京都ではこうして今もなお次々とかつて活躍した人たちの貴重な品々が見つかっています。これもまた1200年ものあいだ都であり続け、ありとあらゆるものの最高級品が集まる街が持つ魅力の1つなのです。

いかがでしたか?

私が将来京都学を教えるようになったら絵画の写真を使って「琳派」や「狩野派」を含めた美術史などの講義をしてみたいものです。もし、ツアーコンダクターとして案内するなら、「琳派ゆかりの名所めぐり」や「狩野派を訪ねて」などのツアーを組んでみたいです。

最近京都に行くときはこのようなテーマを決めて各所を訪ね1人で楽しんでいます。これも将来そのような機会が巡ってきたときのための準備と下見です(笑)。この場所に来たらこの説明して、この逸話を話してなど将来の思いを巡らせながら過去を旅しています。

京都には多くの人に案内したい、その魅力を一緒に訪ねて伝えたいものがいくつもあります。京都日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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