400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

 

「探幽」の時代

関ヶ原の戦いが終わり、徳川家が勝利し、1603年に江戸幕府が成立すると幕府は江戸に移ります。徳川家康が江戸幕府を開くと狩野派も江戸に拠点を移し江戸城の障壁画などを手掛けるようになります。

同時に、京都の徳川の居城二条城にも壮大な障壁画を残しました。国宝二条城二の丸御殿33の部屋三千枚に及ぶ襖絵を手掛けその陣頭指揮を執ったのは当時まだ20代だった永徳の孫探幽です。若くて勢いがあった永徳は見事に幕府の要望に応えたのです。

二の丸御殿の遠侍(とおざむらい)の間は外様を含め全ての大名の控えの間です。二条城に訪れる全ての人が通されるこの控えの間には獰猛な虎の絵が描かれています。この部屋の障壁画であるはむかう相手は許さないという威圧的を与え徳川家の権力の強大さを誇示しています。

そして、奥に入り将軍直々に顔を見せる大広間には堂々たる松の襖絵が一面に描かれています。金箔の襖の上に堂々と太い枝を延ばす松の絵は権力の象徴を示しています。下剋上の時代を生きた戦国武将が好んだ枠を飛び出すような永徳の大画方式のものとは異なり、堂々とした安定感を見せています。枝や幹は堂々としているものの、その先端は枠に収められていて観る者に安定感を与える構図になっているのです。

このように徳川幕府御用達となった狩野派の絵師江戸に拠点を移しただけでなく画風までも変えていったのです。それは、徳川家が好む質実剛健、天下泰平というものでした。このあたりが狩野派の凄みであり、魅了でもあります。

さて、京都に留まった狩野派の絵師はいったいどうなったのでしょう? 

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