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京都の梅の名所「北野天満宮」にある七不思議

学問の神様として有名な菅原道真公ですが、実は梅の花をこよなく愛していたって知っていました? 今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』は、北野天満宮の菅原道真公と梅にまつわる不思議な伝説を紹介しています。

京都の梅の名所「北野天満宮」

2月の京都の人気スポットと言えばやはりここを外すことは出来ないでしょう。「嵐電」の北野白梅町駅から徒歩5分ほどの場所にある北野天満宮です。「北野白梅町」なんてなんともいい地名ですよね。京都にはこのようにとても趣のある地名が今でも沢山残っています。

さて、北野天満宮は全国的に有名な梅の名所です。それは平安時代、梅の花をこよなく愛したことで有名な菅原道真を祀る神社だからです。境内にはたくさんの梅の木が植えられています。また全国に1万2,000社もある天満宮の総本社である北野天満宮は学問の神様としても有名です。東京であれば湯島天神や九州の太宰府天満宮などはあまりにも有名ですよね。

今回は梅の名所、学問の神様・菅原道真を祀る北野天満宮の魅力をご紹介します。由緒ある有名な神社なので沢山の見どころがあります。その知られざる魅力の中で特に興味深いものを取り上げてお伝えいたします。

まず簡単に歴史的背景です。

菅原道真が北野天満宮に祀られた理由は何だったのか? 道真は幼い頃より学問に励み当時最年少で国家試験に合格します。中国の歴史や漢字を教える先生にもなり、宇多天皇に重宝され、天皇の秘書にまで出世します。しかし宇多天皇から醍醐天皇に代わると当時、左大臣だった藤原時平によって大宰府へ左遷されてしまいます。これが901年 昌泰の変(しょうたいのへん)です。藤原時平から見れば、あまりに優秀な道真は政敵だったのです。左遷された道真は京に戻る事が出来ず、そのわずか2年後に太宰府で亡くなってしまいます。そしてここから道真の祟りが始まるのです。

まず醍醐天皇の住む京都御所の「清涼殿」に雷が落ち側近が死亡し、醍醐天皇もショックで体調を崩し崩御してしまいます。本来、雷様は天神様でした。都では不本意に太宰府に左遷された「道真の祟りが雷となった」とうわさされるようになりました。そしていつしか「道真天神様」となっていくのです。

後醍醐天皇が崩御した後も、道真を左遷した藤原時平も39歳という若さで死亡します。その他にも次々と関係者が不遇の死を遂げることになります。こうして道真の祟りに間違いないという恐怖がさらに強まっていくのです。この祟りをどうすれば抑えられるのかと考えた結果創建されたのが北野天満宮だったのです。

没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し正二位を贈りました。その後、現在地の北野に道真を祀る社殿が造営されることになったのです。全国に1万2,000社も天満宮があるということは、当時からどれだけの人々が道真の祟りを恐れていたかがお分かりでしょうか。このように道真の生前の真面目で誠実な人柄と晩年の不遇が伝説を生み、天神さまと崇められるようになったのです。これが平安時代から現代まで1,000年以上、盛んな天神信仰へと展開した背景です。

学者の家に生まれ、幼少のころから多彩な才能の持ち主だった道真公。現在は特に学業成就や武芸上達に御利益があるといわれ受験生から慕われていますよね。また、道真公の命日2月25日に因み毎月25日は境内に露天が立ち、「天神さん」と呼ばれ地元の人たちに親しまれ参拝者が絶えません。

天神さんと梅

北野天満宮の祭神である菅原道真が太宰府に左遷された時に詠んだ有名な歌があります。

「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」

(春の東風が吹くようになったら、花を咲かせて香りを届けておくれ、梅の花よ。 私がいなくても、春を忘れないでいておくれ。)

都で出世街道を突き進み前途有望だったにも関わらず、その有能さを妬まれ左遷されてしまった道真公。太宰府へ旅立つとき、日頃愛していた梅の木に別れを告げた時の歌とされています。

この梅は道真を慕って、一晩のうちに都から太宰府に飛んでいったという伝説があります。これが有名な飛伝梅伝説です。太宰府天満宮には今でもこの飛伝梅が植えられているそうです。この伝説により北野天満宮の神紋には梅があしらわれています。北野天満宮には50種約2,000本の梅が植えられ、2月初旬から3月末までは梅苑も公開されます。梅の花はとても小さく桜のような豪華さはないですが、香りに誘われて大勢の参拝客が訪れます。

京都には知恩院や永観堂など七不思議がある名所がいくつかあります。北野天満宮にも七不思議があることで有名です。有名なものをいくつかご紹介しましょう。

「星欠けの」三光門

御本殿前の中門はの彫刻があるために三光門と呼ばれています。この彫刻は、日と月と三日月はあるが星はないといわれています。その昔、御所からこの門を眺めた時に問の真上に北極星が輝いていたので、敢えて星の彫刻を施さなかったと伝えられています。

御土居(おどい)

今では信じられないかもしれませんが、かつて京都の町は土手のような土塁で周囲を囲まれていました。これは豊臣秀吉が築いた京都の街を囲む壮大な土塁御土居」です。総延長約23キロもあり外からは容易に街に入ることが出来ない状態でした。秀吉が御土居を築いた目的は、「防衛のため」「寺社勢力の京都への影響力を削ぐため」など様々な説があるようです。しかし、その目的については未だにはっきりしたことはわかっていません。ただ現在でも京都には所々御土居の遺構が残っていて、北野天満宮の敷地内であるもみじ苑もそのひとつだったと伝えられます。

天神さんと牛

北野天満宮には牛の像がたくさんあります。天満宮の神使神の使いが牛だからです。牛が神使となった理由はいくつかあります。道真の生まれた年が丑年だった。道真が亡くなったのが丑の月の丑の日だった。道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた。などですが、興味深い話があります。

北野天満宮に伝わる北野天神縁起絵巻に亡くなった道真公を運ぶ葬送の列が描かれています。牛車で運んでいる最中、牛が座り込んで全く動かなくなったので仕方なくその場に埋葬することになったとか。この時、牛が座り込んで臥してしまった姿を「臥牛(がぎゅう)」と言いますが、この姿こそが境内にいる牛の姿なのです。日本全国に天満宮は1万2,000社あるそうですが、どこの境内にも立っている牛はいません。臥牛が境内を護っているのはそのためです。

天神さんのお守り

菅原道真は学問の神さまとしても知られています。道真は幼い頃から勉強熱心で最年少で国家試験に合格し、右大臣にまで上り詰めました。道真を祀った北野天満宮は学問の神さまとして有名で、受験生向けのお守りや御祈祷を受け付けています。もちろん北野天満宮が創建された由来でもある「雷除け」の御守りもあります。

戦国時代以降も北野天満宮は文化の中心地だったり、天下人から注目される場であり続けました。

北野大茶湯と「長五郎餅本舗」

長五郎餅本舗は豊臣秀吉お気に入りの400年続く老舗です。1587年10月、豊臣秀吉は千利休らを招き北野天満宮で大茶会を催しました。秀吉は市中の庶民にも上下の別なく参加を呼びかけました。北野天満宮で評判の餅屋、長五郎も茶屋を出し秀吉に餅を献上したところ大変気に入られたそうです。秀吉から「以後長五郎餅と名乗るべし」と言われたその店は今も北野下の森に店を構え「長五郎餅本舗」として暖簾を守っています。長五郎が認められた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)は10月1日に開かれ、北野の松原には千軒もの茶屋が並んだと言います。境内には秀吉が収集した茶道具の数々が披露され、秀吉自慢の黄金の茶室が用意されました。特設された4つの茶席では、秀吉と千利休津田宗及今井宗休らが参会者に茶をたてたと言います。その光景に当時の京都人はさぞ驚いたことでしょう。

上七軒(かみしちけん)

全国的に有名な神社のお膝元が華やかに栄えないことなどありません。室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店が建てられました。この7軒の茶屋から始まるとされるているのが京都で最も古い歴史を持つ花街上七軒です。当時、秀吉が北野大茶湯を開いた時に上七軒の茶店が団子を献上し大いに誉められたと伝わります。また隣町の西陣との結びつきが強く、その後も花街としての繁栄が続いていきました。

だた、現在お茶屋さんはたった5軒になってしまいました。舞妓さん、芸妓さんに頑張ってもらってこれからも存続を願うばかりです。3月下旬から開催される北野をどり」はとても素晴らしいお座敷舞いなので是非ご覧になることをお勧めします。

上方落語の祖・露の五郎兵衛

北野天満宮の境内に「露の五郎兵衛の碑」が建立されています。初代露の五郎兵衛は、京落語(上方落語)の祖です。1681年頃北野天満宮の境内にて「辻噺(つじばなし)」という話芸をはじめたことにより落語発祥の地と呼ばれています。今でも露の五郎兵衛は上方落語の大名跡です。

歌舞伎発祥の地

技芸上達の神でもある菅原道真公を祀る北野天満宮には、1603年に歌舞伎の祖出雲阿国が、「かぶき踊り」舞った記録があります。そのため、この地は歌舞伎発祥の地とも言われています。当時北野天満宮の境内で評判になれば、現在の円山公園、四条河原町でも成功すると考えられていました。

八棟造(権現造)

北野天満宮は実在の人間を神として祀った初めての神社です。本来神社は神道の聖域であり、天皇家一族の祖先をお祀りしている場所です。菅原道真のような例外を除いては、それ以外の人物が神社に祀られることはありません。

北野天満宮の建築様式は八棟造(やつむねづくり)と呼ばれるものです。横長の長方形の敷地に建つ本殿が奥に位置し、その手間に石の間があります。石の間は一番手前に参拝者が参拝する建物である拝殿と本殿をつなぐだけの小さな建物です。八棟造の屋根はその名が示す通り四方八方に幾重にも破風が突き出しているのが特徴です。この特殊な神社の建築様式を八棟造(やつむねづくり)と言います。

後の世に家康がこの神社建築様式を自らの廟所・日光東照宮に用いることを遺言で命じています。家康を大権現として祀る日光東照宮の建築様式にちなんでこれを権現造とも呼ぶようになりました。

神になろうとした2人(豊臣秀吉と徳川家康)

菅原道真はその怨霊を鎮魂するために後に朝廷が高い地位を与え神として祀られた人物です。これに対して豊臣秀吉と徳川家康は自ら望んで神になろうとした人物です。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は、自らが神となり、豊臣家が神の末裔になることを望んだと言います。秀吉の墓所・豊国廟(現在は阿弥陀が峰山頂)が造られた当時に描かれた狩野永徳作の洛中洛外図屏風にその証拠を見ることが出来ます。秀吉を祀る豊国廟の建物は北野天満宮を模して造られているのです。拝殿と本殿を石の間でつないだ神社形式の建物であったことが確認出来るのです。

先ほど三光門を紹介しました。通常神社は鳥居を入口としますが、北野天満宮には寺院のような楼門と三光門が建っています。これは、菅原道真の怨霊を鎮魂するために、人間を神として祀ったためです。実在の人間を供養する寺院とも、神を祀る神社ともつかない特異な形式となっているのです。神様や天皇家一族とその祖先への配慮といったところかもしれません。ちなみに本殿と拝殿が1つの屋根で覆われている形式の社寺は宮寺と呼ばれ、祇園造りの八坂神社も宮寺の1つです。

徳川家康

徳川家康を神として祀った日光東照宮の本社も権現造りという形式で、北野天満宮の神社形式を踏襲しています。北野天満宮は菅原道真という実在の人物を神として祀った神社です。拝殿と本殿を石の間でつなぎ、1つの屋根で覆う形式は、このように死者を神として祀る建築様式として後の世に定着したのです。それを実現して今も尚現存しているのは死後、関東を照らす神・「東照大権現」として祀られた家康の廟所・日光東照宮ただ1つです。

北野天満宮は道真公の怨霊を鎮めるために朝廷が道真公を天神様と祀って建てられたものです。日光東照宮は家康が死後神として徳川家と国家の繁栄を見守りたいと、自ら望んで建てさせたものです。道真公が、戦国の天下人・秀吉や家康にこれほどまで影響を及ぼしていたことは意外と知られていないでしょう。北野天満宮と日光東照宮、道真公と秀吉や家康公、意外な接点で結ばれました。

そんな豆知識を思い出しながら神社の建築様式を見るとおもしろいのではないでしょうか? 北野天満宮は他にもまだまだ興味深い話が沢山あります。これ以上深く掘り下げるとかなり専門的なものになってしまいますので、今日はこの辺にしておきましょう。

image by: Shutterstock

 

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