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サッカーを変えた孤高の天才。ヨハン・クライフの早すぎた死に思うこと

サッカーを好きな人はもちろん、興味のない人でも「FCバルセロナ」というチームの名前は聞いたことがあるでしょう。そのバルセロナで選手、監督として素晴らしい成功を収め、今日のクラブの礎を築いたサッカー界の巨人ヨハン・クライフさんが3月24日に亡くなりました。 メルマガ『セニョール佐藤のアングル~世界の中の日本サッカー~』で、セニョール佐藤さんは、偉大な天才の早すぎる死を惜しみ、クライフへの熱い思いを綴っています。

ヨハン・クライフ

2016年3月24日。 
サッカー界の巨人、ヨハン・クライフが肺がんのため亡くなった。 
66歳だった。 
この天才の死は、僕にとっては大きなショックだった。 

ワールドサッカーという雑誌が、1999年の12月に「20世紀の偉大なサッカー選手100人」という記事を発表した。 
読者投票によって作られたランキングだったが、そこでペレ、マラドーナに次ぐ3位にランクされたのがヨハン・クライフだった。 
ペレ、マラドーナ両人は南米出身だ。 
ということは、ヨハン・クライフはヨーロッパで最も偉大な選手ということになる。 

因みにこのランキングで8位にランクされているのはジョージ・ベスト。 
マンチェスターユナイテッドでの活躍が有名な名選手で、ペレが「世界最高の選手」と評したことでも知られている。 
僕はこのジョージ・ベストの大ファンだ。 

仕事柄、ブラジルサッカーとのつながりが深いため、僕の最も好きな選手はペレやジーコと思っている友人もいるが、僕は昔からジョージ・ベストが好きだった。 
高い運動能力、冷静で正確な判断力、そして見ているものの予想を嘲笑うかのごとく裏切る創造性を兼ね備えたジョージ・ベストこそが、世界最高の選手だと思っていた。 
「思っている」ではなく「思っていた」なのだ。 

ジョージ・ベストの評価を過去形に変えた存在、それがヨハン・クライフなのだ。 

ジョージ・ベストだけでなく、イングランドサッカーの大ファンだった僕は、高校入学と同時に、海外のサッカーを深く知りたいと思い、洋雑誌を定期購読した。 
イギリスから「Football Monthly」、「 Fotball Pictrial」、「 Goal」、「 World Soccer」の4誌を、それこそ貪るように読んだものだ。 
最初に届いたのは「World soccer」だった。 
そこでは僕の尊敬するサッカージャーナリストのブライアン・プランビル記者によるヨハン・クライフのインタビューが掲載されていた。 

デビュー直後のヨハン・クライフは、1歳年上のジョージ・ベストと比較されることが多かった。 
ブライアン・プランビル記者も例に漏れなかった。 

貴方はオランダのジョージ・ベストですね」という言葉をぶつけたのだが、それに対して「私はオランダのクライフとして取材を受けている」と返したのだ。 
これは後に知ったのだが、ヨハン・クライフが理想としていたのは、1950年代にレアル・マドリードなどを中心に活躍したアルゼンチン人のアルフレッド・ディ・ステファノだったようだ。 

その後、僕はヨハン・クライフをプレーを見るうちに、残念ながらジョージ・ベストよりヨハン・クライフが勝っているということを、認めるようになっていた。 
フェイバリットプレーヤーがジョージ・ベストであることは変わらないが、最高の選手はヨハン・クライフであると思っていたのだ。 

そんな高校時代、サッカー部の友人と話をしている中で、ヨハン・クライフについてどう思うかと問われたことがあった。 
そのとき僕は、「あの人はツバメだよ。速すぎて誰にも捕まえることはできない」と答えた。 
友人はいたく感心してくれた。 
今となっては、我ながら巧いことを言ったものだと思う。 

僕は仕事柄、様々なサッカー選手に会うことができた。 
ペレ、マラドーナ、ベッケンバウアー、ジーコなど、サッカー史に名前を残す選手たちとじかに触れることで、色々なことを学ぶことができたと思っている。 
そんな僕が唯一会う機会がなかったのがヨハン・クライフだった。 

ヨハン・クライフの訃報から数日後、バルセロナに20年在住している、日本人の友人が僕を訪ねてきてくれた。 
当然、話はヨハン・クライフのことだった。 
その友人はヨハン・クライフの知り合いではなかったが、ヨハン・クライフは町で声をかけられると、気軽に挨拶してくれる気さくな人柄であることはバルセロナでは有名だったと語っていた。 

返す返すも残念でならない。 
僕のフェイバリットプレーヤーからナンバー1の座を奪った「オランダのクライフ」に聞いてみたことは、山のようにあった。 
クライフは、その死までもが速すぎて、僕には掴まえることができなかった。 
やはりあの人はツバメだった。 

ジョージ・ベストもヨハン・クライフも、ストリートサッカーの天才だったという。 
育成組織が強化されてきた現代では、なかなかストリートサッカーから選手が出てくることは少なくなった。 
しかし数十年前までは、ストリートサッカー出身のプロは、珍しくなかった。 
未整備の場所でプレーするため、ボールを巧みにコントロールしなければ、ボールは足を離れてしまう。 
そして何よりも、年齢もまちまちのストリートサッカーにおいては、身体も大きくて強い年上と一緒にプレーするため、自分のハンデを克服するための知恵が磨かれる。 
才能を花開かせるには、絶好の場所だったのかもしれない。 

浦和レッズの監督を務めていたア・デモスは、ヨハン・クライフとは幼馴染であり、親友でもあった。 
アヤックスの下部組織ではチームメートだった。 
ア・デモスから聞いた話だが、アヤックスには野球部門もあり、ヨハン・クライフは野球もプレーしていたという。 
ポジションはキャッチャーで、相当に巧かったようだ。 
余談だがセンターを守っていたのは後のオランダ代表FWで、「もう一人のヨハン」と呼ばれたヨハン・ニースケンスだったという。 

ヨハン・クライフの選手としての実績や監督としての実績は、もはや僕が記すまでもないだろう。 
様々な媒体にクライフ讃歌が掲載されており、読者の皆さんも十分にそれは承知していることだろう。 
一つだけ強調したいことは、今のバルセロナの原型を作り上げたのは、紛れもなくヨハン・クライフであるということだ。 
恩師であるリヌス・ミケルスの影響も受けているのだろう。 
スピードをベースとして、運動量、ポゼッション、局面でのテクニックなどの要素を、全てのポジションの選手に求めたトータルサッカーを作り上げたヨハン・クライフは、やはり天才だった。 

選手としても、指導者としても頂点を極めたヨハン・クライフの功績は、サッカーというスポーツが続く限り、色あせることはない。 
この点においてだけは、クライフのツバメのようなスピードも無関係でいられることだろう。

 

 

セニョール佐藤のアングル~世界の中の日本サッカー~
著者/セニョール佐藤
日本サッカーのプロ化に尽力、Jリーグ設立に寄与。日本サッカー協会国際委員などの他、日本サッカーリーグ、Jリーグの多数の委員会で活動してきたセニョール佐藤が、日本サッカーについて様々な観点(アングル)からお話します。世界中に広がる独自の人脈から得た「ここだけの話」も登場します。
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