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悠久の古代ロマン。日本建国の謎を解くカギは大企業・イオンが握る?

奈良県桜井市に建設を予定していたイオンが出店を断念しました。その意外な理由は「高額な発掘調査費」。実は建設予定地が弥生時代の大集落跡・大福遺跡にかかっており、その調査費用は事業者負担という決まりがあったのです。この報道を受け、無料メルマガ『古代史探求レポート』ではこの大福遺跡について詳述し、イオンにぜひ日本建国の謎を解き明かして欲しいと願っています。

ヤマトの征服に大きな戦はなかったのか

イオンの桜井出店断念、発掘調査費18億円が壁 複雑遺構、前例ない広さ

今回は、大福遺跡にイオンを建設しようという話のようです。

大福遺跡は、古代史探求レポートでも既に紹介させていただきました。日本最古のお面が出土しているのですが、私はレポートの中で、お面ではなく仮面だったのではないかと問題提起させていただきました。

お面も仮面も、顔につけるものですが、仮面は顔を隠すためのものです。本人であることを知られないためのものが仮面です。お面は、付けてその役を演じ、なりきるためのものです。自分を隠すために付けるものではありません。ですから、お面は非常に精巧に作られます。

大福遺跡のものは、農作業に使ったであろう鋤を利用して目の位置を開けたものです。そこには、着色の跡も、削った後も存在していませんでした。例えば、悪魔を演じるとか、魔物を演じるものでもなく、芝居に使われたものでもありませんでした。これは、想像でしかありませんが、収穫祭の後その面をつけて求婚していたのではないかと考えているのです。ですからお面ではないのです。

この大福遺跡の場所は、私にとって非常に興味深い場所でもあるのです。ご存知、大和政権の萌芽の場所である纒向遺跡と接しています。纒向には、個人の集落がなく、大きな建物しか存在していなかったことがわかっています。何もない場所に、突然大型建築物が登場したのです。

つまり、何者かの一族が移り住んだわけですが、彼らを支える労働者が必要であったはずです。難しいのは、その労働力を担った人々はどこに住んでいたのかという点です。

近くには唐古鍵遺跡が存在します。弥生時代の大規模環濠集落で各地の土器が出土していますから交易も大々的に行っていたことがわかっています。また、この地には土器片に描かれていた非常にユニークな物見櫓が再建されています。そこは居住空間ではなく、あくまで物見櫓です。この一族が纒向へと移動したとも考えられますが、だとすれば何故ということになります。それに、近くではありますが、隣接しているわけではありません。

唐古・鍵遺跡の人々が纒向に移り住んだという仮説は間違いであるように思います。やはり、どこからかやってきた一族が空間地であった三輪山の麓に住み着いたのだと思います。そして、その食料である稲作を行った場所が、纒向遺跡の周辺、即ち、大福遺跡を含む西側の地域だったのではないかと考えていたのです。

大福は桜井市の地名で隣には橿原市になりますが坪井遺跡があります。環濠集落は、大福遺跡と坪井遺跡を合わせたものでしたから、今は坪井大福遺跡と呼ばれているようです。この遺跡発掘では、方形周溝墓の存在が確認されているのですが、一番古いものは弥生時代中期紀元前1世紀ぐらいのものだそうです。私の仮説では、帯方郡による監督官であった大率の設置に合わせて北九州の一族が東に東遷したと考えています。従って、3世紀の頭に突然街ができるか、征服されるという痕跡が必要になるのです。

これに対し、纒向遺跡の建築物は3世紀頃、何もない場所に突然出現したことがわかっており、これは仮説と合致するのですが、坪井・大福には紀元前1世紀に、方形周溝墓を作る一族が暮らしており、古墳時代の前半、すなわち、4世紀前半に築造された方形周溝墓も確認されています。少なくとも5基がその期間内に作られたものとして確認されているのです。

これは、この地に紀元前1世紀に住み着いた一族がおり、その一族が同じ埋葬形態を保ちながら、4世紀まで暮らしていることを物語っています。纒向遺跡の隣の地には別の一族が住み着いていたということになるのです。つまり、纒向遺跡の一族は後から隣にやって来て共存していたということになります。そんなことが可能なのでしょうか。
神武天皇こと、イワレヒコがヤマトに入った時、そこには既にこの地を納めている饒速日命(ニギハヤヒ)が存在していたと記載されています。すなわち、神話の中の世界で言うなら纒向遺跡は神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)の居住地ですが、隣の坪井大福遺跡は饒速日命(ニギハヤヒ)が開拓した土地であったのかもしれません。

神武東征が、何かを伝えているとするなら、宇陀のエウカシ、忍坂の八十建、ナガスネヒコ、エシキ・オトシキと戦い、もしくは騙し討ちによって相手を倒していきます。素直に考えれば、宇陀、忍坂、磯城などの地を征服し従えていったということだと思います。古事記によると、この直後、畝火の白檮原宮で神武天皇になったと書かれています。奈良盆地の南東の山側から、徐々に平地を掌握し、奈良盆地の真ん中までやってきたことになります。

大福遺跡のある場所は磯城の一部です。エシキ・オトシキと戦い勝ち取った場所こそが、この場所だとするなら、その戦いの痕跡が見当たらないことになります。この坪井・大福遺跡が、紀元前から古墳時代までの平穏な集落遺跡の姿を残していることと、戦乱により一族が取って代わった事実とは一致しません。

出土した仮面は、相手の弓矢から顔を守るためのものかとも考えましたが、武器が近くから出土したという話も聞きません。鋤を握っていた人々が兵士として戦うということはしなかったと思います。

古事記や日本書記に書かれている古代の戦いは、支配者を倒すかどうかにあるように思います。支配者とともに、何名かの腕力が強い仲間や、弓の達人はいたようですが、大組織の軍隊を持つような体制は存在していなかったのではないかと思います。

坪井遺跡からは、有柄式銅剣を模してつくられた木製の柄頭(つかがしら)が出土しました。ここに住んでいた人々は、決して支配層でもなければ、兵士でもなかったのです。磯城の地域を支配していた、エとオト、すなわち兄弟と、その部下の木でつくった剣を持つ荒くれ者を倒すことで、磯城の地は大和政権の地へと組み込まれたのだと思われます。そこには、大規模な戦闘などは存在していなかったのではないでしょうか。

イオンが18億という巨費を投じてまで、全くビジネスに結びつかない発掘作業を実施してくれるとは考えられません。しかし、この大福遺跡の場所は、いかにして大和政権がこの地に定着し、勢力を伸ばすことができるようになったかを解明してくれる場所でもあるのです。日本の建国の原点を知り得ることのできる活動だと理解いただき、メセナとして取り組んでいただけないものでしょうか。

今や国民の生活を左右する力を持っている企業なだけに、建国の謎に取り組んでいただけないかと考えるのです。大和政権は、支配力が九州や東国に迄は及びきらなかったのかもしれませんが、イオンは北海道から九州迄くまなく制覇しているのですから。

image by: Shutterstock

 

古代史探求レポート
著者/歴史探求社
どのような場所にも、そして誰にでも歴史は存在します。その場所は、悠久の昔より地球上に存在して多くの人々が生活し行き交った場所です。また、皆さんは人類が始まってから、延々と受継がれて来た遺伝子を継承している一人なのです。歴史探求社は、それぞれの地にどのような歴史があったのか。また、私達のルーツにはどのような人々が存在し、どのような行動をおこしたのかを探求し、それを紹介する会社です。もっとも、効果的と思われる方法を用いて、皆様に歴史の面白さをお届けします。「まぐまぐ」を通じて、メールマガジン「古代史探究レポート」を発行、購読は無料です。大きな歴史発掘報道や、企画展情報、シンポジウム等の情報を提供しています。
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