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絶世の美女「額田王」恋の謎。万葉集に見る、いにしえの恋愛事情

日本最古の和歌集として知られる「万葉集」。多くの優れた和歌を収めたこの作品集は、現在も多くの人々から愛されています。今回の 無料メルマガ『古代史探求レポート』では、その中でも「絶世の美女」として有名な「額田王」(ぬかたのおおきみ)に関する和歌を紹介し、解説。その作品からは、当時の多くの英雄や天皇から愛された、彼女の「モテ女」ぶりと、複雑な恋愛模様が見えてくるようです。

万葉の恋の謎を探る

第4回蒲生野万葉短歌会 蒲生野大賞に寒川さん

歌はいいですね。短い言葉の後ろにある世界が大きく広がり、様々な想像の世界を提供してくれます。先週は、万葉の世界の中で、特に歌聖と呼ばれる柿本人麻呂とその死の謎についてお話させていただきましたが、今週も、先週に引き続き、万葉の世界からのお話をさせていただきたいと思います。

今回取り上げさせていただくのは、額田王(ぬかたのおおきみ)の恋の謎です。このお話は、以前にもご紹介させていただくとともに、その解釈をお話しさせていただいたのですが、今回は時代背景や天智、天武の駆け引きも絡めて白鳳時代の恋について考えてみたいと思います。たまには艶っぽい話もいいのではないでしょうか。

紹介させていただいた「蒲生野」とは、「天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作れる歌」として万葉集に紹介されている歌の舞台です。

「あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」

今回は、少し丁寧に歌を味わってみたいと思います。

「天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟」とは、天智天皇が668年5月5日、大海人皇子、中臣鎌足を含め、多くの群臣とともに、現在の滋賀県近江八幡市あたりの蒲生野に「薬狩り」を行った行事のお話です。

旧暦の5月5日は、薬狩りの日として決められていました。薬狩りとは、野草狩りのことですが鹿狩りも同時に行われました。これは鹿の角が薬になると信じられていたためです。5月5日には今でも菖蒲湯に入る方がおられると思いますが、野草狩りで菖蒲を取り湯に入れ邪気を払う習慣があったためです。また、よもぎ餅を作って食べるのも、この時の薬草で作って食べたことが起源です。

「あかねさす」は紫の枕詞です。紫野は、染色用の紫草の栽培地です。また、標野は、「標」を張って部外者以外立ち入り禁止にした野の事です。野守は、立ち入り禁止の野だけに、そこの番人がいるということです。従って、歌の解釈は、「紫草の栽培地や、天皇狩場として標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをして。野の番人が見るではございませんか。あなたが私の気を引こうと袖を振っておられるのを。」

見事だなと思うのは、「〜行き」が繰り返されているところです。まさしく、ルンルンで心躍る様子がわかります。袖を振った人も我を忘れているような行いをしているのですが、振られた額田王も心ときめいている様子がわかります。この薬狩りが天智天皇の行事であることから、標野は天智天皇の世の下でという意味にも取れます。そう考えると、その野守とは天智天皇のことだとわかるのです。本当にうまい歌だと思うのです。

絶世の美女と言われた額田王。668年の時点では、天智天皇の妃です。
額田王は、宣化天皇の後裔である鏡王(かがみのおおきみ)の娘です。彼女は大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎます。そして、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んでいます。

彼女はどう考えても歌人です。白村江の戦いにいざ出向かんという時の歌「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮も適(かな)ひぬ 今漕ぎ出でな」潮もは、「も」ですから、全ての準備が整ったと言って「いざ、行かん」という人々の士気を奮い立たせる歌を歌っています。この歌も本当に上手いと思うのです。

一方で、同じ万葉集の中に、「額田王の近江天皇を思ひて作れる歌一首」として

「君待つと我が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

という歌が掲載されています。

近江天皇とは近江大津宮を置いた天智天皇のことです。天皇の命には逆らえないということでしょうか。大海人皇子の妻でありながら、兄であった天智天皇に召され、そして、このような歌を残しているのです。

天智天皇を心の底から慕っていたかどうかはわかりませんが、天皇に召されて仕えている以上、天皇を慕う歌を歌会か何かで歌わされたのではないかと思います。額田王の歌にしては、熱を感じない歌です。吹いて揺らすのは「秋の風」です。心が冷めてしまったのですか?という意味にも取れますが、簾が額田王の心だとすると、それを動かす風は春風ではなく秋風なのです。私は、心から慕っていたのではないのだな、と読み取ったのですがいかがでしょうか。

さて、話を戻してルンルン気分の「蒲生野(かまふの)に遊猟」に戻りますと、その歌に対して「皇太子の答えませる御歌」として

「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆえに 吾恋ひめやも」

として、大海人皇子の歌が載せられています。

「皇太子」というのにちょっと引っかかってしまいます。日本書紀には「大皇弟」と書かれていました。天智天皇は自分の子供の「大友皇子」を天皇にしたかったわけですから、皇太子というのであれば大友皇子です。第一、この時代に皇太子という言葉はないだろうと思うのですが、きっと万葉集を編纂する人が、時代の経緯から大海人皇子を皇太子と呼んだと理解することにしました。そうでないと、歌の意味は大きく変化してしまうからです。

さて、この歌ですが、額田王が「紫野行き標野(しめの)行き」と言っているので、まずは「紫草(むらさき)のにほへる妹」と返します。紫は最高の権威者のみがつけることを許された色です。中臣鎌足が亡くなった時に得た大繊冠は深紫の色でした。つまり、今のあなたはもう紫色をつける女性となってしまっていますねと言っているわけです。紫草で染めた気品ある色のように艶やかなあなたを憎いと思っていたなら、すでに人妻となったあなたをどうして私が恋い慕いましょうか」と歌っているのです。

大海人皇子は、直線的に恋心をぶつけています。男として気持ちがいいですよね。例え、天皇に召されてしまった女性であろうと、好きなものは好きだと言い張るこの気持ち。男性たるものこうでなければいけないと思います。大海人皇子というのは、非常に精神的に強い人であり、それこそ負けん気も強かった人ではないかと思います。

先週お話させていただきましたように柿本人麻呂は

「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」

と彼を読み上げました。

方や、乙巳の変で蘇我入鹿を打ちクーデーターを実施し権力を手に入れようとした男です。欲しいものは、どんな事をしても手に入れる人間と、方やその弟ながら決して負けないだけの力強さと何者にも屈しない精神をもつ男。そんな二人に愛された女性。その気持ちはどれほど大きく揺れ動いたのでしょうか。もしかすると、一時であったのかもしれませんが世界で一番幸せな女性であったのかもしれません

前回ご紹介した時にもお話しさせていただいたと思いますが、この二つの歌は、宴における遊びの歌だというのが最近の考え方です。井上靖の小説の中でも、宴の中で詠みあげています。確かに、宴でもなければどうやって歌を交換したんだということになります。

大海人皇子が遠くで袖を振るのを見つけた額田王が歌を届けるには、大声で叫ぶしかありません。相手は狩りをしているのです。その歌を聞いた大海人皇子が「吾恋ひめやも」と大声で言い返すなんてことはやはり考えられないのです。差し出すとすれば、人知れず「秘めた恋心ですから」と渡す以外、この歌の真意を伝えることはできないように思うからです。

天智天皇は626年生まれですから「蒲生野(かまふの)に遊猟」は668年で42歳、天武天皇は40歳。額田王の生まれ年はわかりませんが、十市皇女が生まれたのが653年。例えば20歳で生んでいたとして、35歳だったということになります。20代ならまだしも、40を超えてこんな純粋な恋をするものかという声もあるようですが、私は、年齢はあまり関係ないのではないかと思ってしまうのです。

天智天皇がまだ即位する前の中大兄皇子の頃に詠んだ三山歌という歌が同じ万葉集に残されています。

「香具山は畝火(うねび)を愛(を)しと 耳梨(みみなし)と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争うらしき」

奈良盆地の南、ちょうど藤原京のあったあたりにある3つの小山を歌ったものです。香具山は畝傍山を愛しいと思って、耳成山と互いに争った。神代からこうであるらしい。古き時代もそうであるからこそ、今の時代の人も妻を争うらしい。という歌です。

大和三山をみて、恋の争いの当事者に見えるというのは、どういう感覚かと思いますが、もしかすると、そこに大海人皇子と額田王が同席していて、この歌を詠んだとするなら、中大兄皇子に「お前も大したものよ」と声かけてやりたくなります。歌に技巧といいますか、隠された背景がないために、私はつまらない歌だと思ってしまうのですが、この歌が3人の恋争いを描いていたとするなら、3人の恋の争いはやはり古くからの因縁を含んでいたとも言えるのです。

個人的には、何年もの間一人の女性を争ってきたというふうに取りたいのですが、それはやはり、幻想なのかも知れません。天智天皇にしてみれば、大海人皇子は何としても敵にしたくなかった人物だと思います。自分の娘のうち、鸕野讃良皇女、大田皇女、大江皇女、新田部皇女と四人も大海人皇子の妃として嫁がせています。鸕野讃良皇女は皇后でした。そして、額田王と大海人皇子との間にできた娘の十市皇女は、大友皇子の妃として迎えています。彼には恋愛という考え方がなく、女性は政治の道具であるという考え方しかなかったのかも知れないのです。

最近はもう少し違う考え方もするようになりました。もしかすると、中大兄皇子が欲しかったものは、刺激だけであったのかもしれないと思うようになりました。彼は精神的に病んでいたのではないかと思われる節が多いためです。また機会がありましたら、彼のサイコティックな一面を紹介させていただきたいと思います。

額田王を絶世の美女と書きましたが、それは後世の人による脚色かも知れません。井上靖の「額田女王」や、宝塚の影響が非常に大きいのだと思います。最近私は、大海人皇子の愛した額田王とは、やはり歌の才こそが魅力の女性だったのではないかと思うようになりました。
「熟田津に」の歌が、斉明天皇の出陣を鼓舞するのをみて、そこに居た中大兄皇子は、彼女の才能を近くに置いて置きたいと願ったのではないかと思うのです。そして、皮肉にも、その才能は大海人皇子との関係において、最も発揮されたということなのではないでしょうか。なぜなら、そこにはやはり愛があったからだと私は思うのです。

image by: ReijiYamashina, WikimediaCommons

 

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