古来より、塩や海産物、山の幸などを運ぶために庶民たちが往来した、通称「塩の道」をご存知でしょうか。荷物の運搬が新しい道路や鉄道等に取って代わられて以降、忘れられつつあったこのような街道が、今、観光客たちの人気を集めています。今回の無料メルマガ『安曇野(あづみの)通信』では、そんな塩の道のひとつ、新潟県糸魚川市と長野県松本市を結ぶ千国街道が詳しく紹介されています。
小谷村、白馬村に多くの遺跡が残る 塩の道「千国街道」
古代の昔から塩や海産物を内陸に運ぶ道が形成されていた。これはまた反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもあった。製塩が化学製法に代わり、専売法に依る規制がかけられる以前は海辺の塩田に頼るしかないから、日本の各地で、海と山を結ぶかたちで数多くあった。
かつて、馬子や牛方、歩荷(ボッカ)などによって、塩とともに生活物資や民衆文化までが往来した街道がいくつかあった。日本海の町、糸魚川と信州松本を結ぶ全長30里(120km)の千国街道もそんなひとつ。
この道は、塩を待つ信州側では糸魚川街道と呼ばれ、塩を送り出す越後側では松本街道とも呼んだ。「塩の道」というロマンチックな響ききさえするネーミングは近年になってから。
信州など内陸部への移入路は昔から無数に開けていたという。信州は、海の遠い国であり、それだけ塩や魚など海産物に対する希求が強かった。千国街道が、数多い塩の道の中で特に著名になったのは、最も多く塩が運ばれたという歴史的事実にもとづくものであろう。現在でも盛んな松本の飴市は、本来塩市に由来するものであるし、また上杉謙信が、敵方の支配下である松本地方へ塩を送ったという故事がまことしやかに伝えられている。
数多く残されている塩の輸送や保管に係る遺跡は、旧道に立ち並ぶ野仏の数々、沿道の美しい風景は、この道に現代人を引きつけずにはおかない。前回紹介した白馬の観音原にも多くの旅人が立ち寄ったことだろう。
その昔、大名行列もなく、物見遊山や参詣の旅人も少なかった頃のこの道は、塩や海産物、その見返りとして豆・煙草・麻などを運ぶ牛方や馬子、ボッカの通う道としてあるいは、ひっそりと往来した六部衆やゴゼによって歩き継がれた庶民の道、生活の道であった。
日本海の潮風をにじませた荷を背負って、牛方やボッカたちはアルプスを仰ぐ険しい道を通っていった。そんな細い峠道や野辺の道は、明治20年以後、新しい時代の道路や鉄道にとってかわられ、農道として使われたわずか部分を除いて忘れられ、いたずらに草に埋もれるままだった。
「約90年ぶりによみがえったんです。脚光を浴びはじめたのはこの5、6年のことですよ」と、小谷村にたった一つ残った牛方宿の六代目で民宿千国荘の主人千国徳重さん(76歳)。15、16年前まで、この家に住んで民宿も営んでいたという。
今は道の向かいに別棟を建て、牛方宿は観光客に解放している。「牛方宿を壊そうと思ったら、100万円の上かかるというし、躊躇していたら、その内あちこちから『待った』の声がかかってきて…。つぶさなくてよかった」とその当時を振り返る。今やこの家は千国さんにとっても、塩の道にとっても貴重な財産なのである。
往時のおもかげが、最もよく残っているとされる小谷村の街道筋、牛方宿をはじめ千国番所跡・弘法清水・首切坂など数多くの遺跡や百体観音・風切地蔵・観音原・道祖神など無数の石仏が点在している。
土日、休日ともなると雑誌片手の若い女性など大勢の観光客が訪れ、北アルプスの峰々を見ながら、かって牛方やボッカが行き交った道をたどっている。
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