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世界初の超高速鉄道「0系新幹線」と「零戦」の知られざる関係

旅行、出張、帰省など、私たちの日常になくてはならない日本の大動脈・新幹線。一度も大事故を起こしていない高速鉄道として、世界中から高い評価を受けています。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、新幹線の「生みの親」である島秀雄にスポットをあて、新幹線誕生までのあゆみと、それを支えてきた日本人たちの「叡智と努力」を振り返ります。

島秀雄~新幹線の生みの親

もし東海道新幹線が建設されていなくて、同じ人数を乗用車で運んだとすると、毎年1,800人の死者と1万人の負傷者が出ることになる。
(『新幹線がなかったら』山之内秀一郎 著/朝日新聞社)

イギリスの経済雑誌「エコノミスト」はこう書いた。開業以来一度も大事故を起こしていない新幹線の驚くべき安全性を見事に表現している。

効率性も抜群だ。東海道新幹線の旅客数をバスで運ぼうとすると、10秒ごとに走らせねばならない。東名高速道路がバスで数珠つなぎになっていまうだろう。ジャンボジェット機なら100機余計に必要だ。

新幹線はまさしく日本の大動脈である。驚くべき安全性と効率性を備え、環境にも優しい。もし新幹線がなかったら、戦後日本の高度成長は大きく損なわれていたであろう。

「東海道の息子たち」

新幹線は世界の鉄道に強い影響を与えた。新幹線が登場した当時は、鉄道斜陽論が盛んで、米国では線路がどんどん取り外されて、ハイウェイ中心の自動車輸送に置き換えられていた。21世紀には世界中から長距離列車は消え去っているだろう、とさえ言われていた。それを一挙に覆したのが、新幹線の成功だった。

東海道新幹線が開通した翌年の暮れ、フランス国鉄はTGV(超高速列車)」の構想を策定した。1981年にフランスで出版された『TGVの挑戦』という本には以下の一節がある。

TGVは東海道の息子であり、イタリアのディレティシマの従兄弟だ。1950年代の日本での研究、60年代の開業と営業の推移について、フランス国鉄は大変な関心を持って見守っていた。常識をくつがえした全く異なったシステムを採用したことによって日本はそのパートナーたちと競争相手に強い印象を与えた。
(同上)

ディレティシマとは、東海道新幹線開業の6年後に建設の始まったローマとミラノを結ぶヨーロッパ最初の高速鉄道である。フランスのTGVの建設が始まったのが、さらにその6年後。ドイツも負けじと、同じ年にICEという高速鉄道の工事にかかった。このICEは98年に脱線事故を起こし、100人もの犠牲者を出して、高速鉄道での事故の恐ろしさをみせつけた。

2004月に開業した韓国の高速鉄道は、フランスのTGVの技術を導入したもの。しかし平野が多い欧州で開発されたTGVは、トンネル対策や台風対策など、安全面の問題が発覚し、日本に技術支援を求めたが、「入札時に安全管理面での日本の優位性を強調したにもかかわらず、いまごろ支援要請するのは虫がよすぎる」との反発が出る一幕もあった。それとは対照的に、台湾は自然条件の似ている日本の新幹線の安全性を高く評価して導入を決めた。

それぞれのお国ぶりが如実に現れているが、いずれにしろ世界中の高速鉄道はすべて新幹線の息子たち」なのである。

美しい機械は性能も素晴らしい

フランス国鉄の技術開発担当の副総裁を務めたフィリップ・ルムゲール氏は、こう語ったことがある。

日本の新幹線の建設には本当に刺激を受けた。それもあって私は新婚旅行の目的地に日本を選んだ。日本滞在中に新幹線についていろいろな人々と語り、資料も読んだが、最も強い印象を受けたのは島秀雄氏のリーダーシップと鉄道技術研究所の存在だった。第二次大戦中に軍隊の研究所にいた人たちが戦後、鉄道研究所に移り、その人たちの理論と研究が新幹線の実現に大きく貢献したということが非常に印象的だった。
(同上)

新幹線の技術的成功の原因をつきつめると、結局、当時の技師長・島秀雄と、かつて海軍で名機零戦など戦闘機開発に従事した技術者たちの存在に行き着く。

島秀雄は大正14(1925)年に鉄道省に入り、工作局車両課で蒸気機関車の国産化に努めた。

合理的なメカニズムは、美しくなければならない。美しい機械は性能も素晴らしい。
(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉 著/PHP研究所)

こう語る島は、車両課で10年間、蒸気機関車の設計に従事し、「日本のSL(蒸気機関車)の黄金時代」を築く。昭和11年からの10年間で1,115両も生産された名機D51(デゴイチ)も島の設計だ。D51は性能や見た目ばかりではない。保守・修繕作業がやりやすいように、微に入り細に入り、工夫を凝らして設計されていた。だからデゴイチは保守・修繕の現場の人間にも一番愛された蒸気機関車であった。

性能コスト保守のやりやすさ、こういう様々な要求を全体的にバランスをとって、中庸の美学を追求する島の姿勢は、戦後の新幹線の開発にも十分に発揮されている。

戦前に計画されていた弾丸列車

昭和14(1939)年7月29日、鉄道大臣招集による鉄道幹線調査会が開かれた。この調査会は11月までの4回の会議で、東京~下関を9時間で結ぶ弾丸列車」の構想をまとめた。全線で踏切のない立体交差の広軌(1,435mm)線路を新設し、時速150キロで走らせる。従来の狭軌(1,067mm)では、車体が安定せず、高速を出せないからである。将来は200キロを超える超特急で東京~大阪を3時間半で結ぼうという、ほとんど戦後の東海道新幹線そのものといってよい計画である。

計画を策定した中心人物は島安次郎島秀雄の実父であり、明治期の鉄道技術の中心人物である。弾丸列車計画は、翌15年に帝国議会で予算案通過、16年には新丹那、日本坂のトンネル工事が始められた。日本坂トンネルは昭和19年9月に完成。現在の東海道新幹線ルートが通る静岡~掛川間の日本坂トンネルは、この時に作られたものだ。

昭和15年1月、島秀雄は鉄道省工作局に転任し、弾丸列車を牽引する機関車の設計を命ぜられた。戦争がなければ、このまま昭和29年には弾丸列車が実現していたはずである。しかし戦局悪化により計画も立ち消えとなり、島安次郎は志半ばのまま戦後まもなく没した

世界の常識に挑戦

親父さんの弔い合戦をやらんか?」。昭和30年の夏、国鉄を退職して住友金属の取締役となっていた島秀雄は、第4代国鉄総裁に就任したばかりの十河(そごう)信二にこう口説かれた。十河は、以後、地元に鉄道を引いて票を得ようとする政治家たちの圧力をものともせず、新幹線計画に金をつぎこんでいく。島秀雄は副総裁格の技師長として、新幹線開発に邁進する。この二人のコンビが新幹線を実現する原動力となった

当時、東海道線の輸送量逼迫に対応するために、従来の東海道線をそのまま複々線化する案があった。これならはるかに低予算で済む。しかし、島の腹は広軌の新線建設に決まっていた。広軌新線を高速レーン、東海道線を低速レーンとして使えば、追い越しのロスも減って効率的なダイヤを組める。新線ならばこそ最短距離で東京~大阪を結べる

もう一つ、島が決めていたのは「電車列車方式の採用であった。当時は「長距離列車は機関車列車方式に限る」というのが世界の常識であった。「機関車列車方式」とは、先頭の機関車が動力を持たない客車を引っ張るという形式である。それに対して「電車列車方式」とは、客車一両ごとにモーターがついていて、それぞれが自走力を持つ。当時のモーターでは騒音や振動がひどく、遠距離の長時間乗車など論外だと信じられていた。

しかし、島は騒音や振動は技術で解決可能だと見ていた。それよりも電車列車方式の数多いメリットを活用すべきだと主張していた。たとえば重い機関車を走らせなくてすむので、線路や鉄橋などの建設コストが節約でき、エネルギー効率も良い。回生ブレーキ(減速時に発電)でエネルギー節約ができる。加減速性能に優れているので、高速運転に向いている。終着駅で機関車を先頭から最後尾につけかえなくて済むので、折り返し運転が容易、等々。

海軍飛行機屋たちの執念

島は戦前からいずれ高速で走る電車列車の時代が来ると読んでいた。昭和20年12月、敗戦からわずか4ヶ月目、海軍航空技術廠の技師だった松平精を鉄道技術研究所に迎えて、こう依頼している。

松平さん。私は、将来、日本に電車形式の高速長距離列車を走らせたいと思います。しかし、いまの電車は振動もひどいし、音もうるさい。とても長時間、お客様に乗っていただく車両とは言い難い。ぜひ、あなたの航空技術の知識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきたい。
(同上)

松平精は零戦をはじめ海軍航空機の振動問題を解析するスペシャリストで、35歳の若さですでにこの分野の権威であった。松平は、敗戦の焦土の中でも、将来の日本の鉄道について斬新で具体的なビジョンを語る人物がいることに感銘を受けた。

終戦直後、松平のような軍の技術者が大挙して鉄道に移り、鉄道研究所だけでも職員が500人から1,500人に増えた。これらの、かつて戦闘機を開発した技術者たちが、戦後復興の執念をもって鉄道技術開発に取り組んだのである。

優れた高速車両を作り出すためには、まず車両の振動理論を完成させることが先決」という島の方針に従って、理論好きの飛行機屋たちと、経験豊かな鉄道屋たちが白熱の議論を展開しながら、車両の振動理論を完成させていった。当時、欧米でも、高速電車列車という発想はなく、振動理論も手つかずであった。この振動理論の完成によって、日本の車両技術は欧米に大きく水をあけた。戦後の新幹線には、戦前の零戦などの技術伝統が継承されていたのである。

進め方も「常識破り」

新幹線プロジェクトの進め方も「常識破り」だった。日本の鉄道が出したそれまでのスピード記録は昭和32(1957)年に小田急が作った時速145キロだった。そこから、いきなり時速200キロでの営業運転を狙うという。通常なら、試験運転で250キロ以上の速度を出せる事を確認し、続いて量産試作車を作って100万キロほどの走行試験を行い、信頼性・耐久性を確認した上で、ようやく営業運転に入る、というのが常識であった。

実は高速試験をしたくても、時速200キロを出せる線路がなかったというのが実情であった。昭和37年6月に小田原付近の線路が完成し、ようやく試作車両を使って試運転を始めることができた。4ヶ月後に初めて時速200キロを突破し、翌年3月には256キロの世界最速記録を達成した。

昭和34年3月に国会で約2,000億円の予算を認められてから、昭和39年10月の東京オリンピックまでの5年半で安定した営業運転にこぎ着けなければならない。線路、鉄橋、駅の建設、新型車両の開発と360両の量産、運転管理、信号系、電力供給、運行ダイヤ、、、およそ鉄道に関する一切のシステムを完成させる。工期の遅れや、事故は絶対に許されない。

「世界の驚異のうちに短時日に完成成功した所以」

この課題に対して、島は「未経験の新技術は原則として使わない」という方針を貫いた。逆に言えば、日本に蓄積されていた技術を集大成すれば時速200キロ程度の高速列車は十分に実現できる、と島は考えていた。『東海道新幹線技術発達史』まえがきにはこんな一節がある。

すなわち我々日本の鉄道技術は軌間の狭いという制約の中でそれを意識して極度にまで発達進展してはち切れんばかりとなっていたという事が出来るのである。従ってこれが一たび機会を得て東海道新幹線の建設を広軌を以て行うこととなった場合、制約をはずされて丁度閘門(こうもん、堰)を切った様に一時に飛び出して世界の驚異のうちに短時日に完成成功した所以である。
(同上)

新幹線を「驚異の短時日」で完成できたのは、今まで蓄積されていた技術が堰を切ったように飛び出したからであるという。島自身も、後年たびたびこう回想している。

新幹線車両の設計にあたって、狭軌でさんざん苦労した私たちは、技術的にそう困難に感じることはなかった。
(同上)

新幹線は、戦前戦後を通じて数十年に渡って蓄積された日本の鉄道技術が一気に花開いたものと言える。しかし、同時にその蓄積の相当部分は、高速長距離列車という島のビジョンがあったからこそ、形成されたとも言えよう。

「日本国民の叡智と努力」

昭和39年10月1日午前6時。東京駅9番ホームでひかり1号列車の出発式典が執り行われていた。発車のベルと同時に、国鉄総裁によるテープカットが行われ、くす玉が割れる。50羽のハトが飛び立ち、万歳三唱に送られて、ひかり1号列車が静かに動き出した。

この晴れの舞台には島秀雄の姿はなかった。前年5月に十河が2期目の総裁任期を終えて退任した時、一緒に辞任したのである。新総裁からは留任を要請されたが、すでに99%完成の見通しが立っているので技術的には心配ない、と固辞した。

島は東京高輪の自宅で、一番列車が通り過ぎるのを自宅の窓越しに見送った。その後、意見を求められると、しばしばこう言った。

東海道新幹線は、それぞれの分野に蓄積されていた既存の技術を活かして、現場のみなさんの創意工夫によってできあがったものです。私は技師長として、単にそれをとりまとめたにすぎない。

東京駅の新幹線中央乗換口にはブロンズ製の記念碑があり、こう刻まれている。

この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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