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長野県民の心をひとつにする「信濃の国」が止めた「南北戦争」

長野県民なら歌えぬ者はいない、とまで言われる「信濃の国」。テレビなどでもこの曲を巡るエピソードが取り上げられることも多く、一地方県の県歌としては珍しくその名が知られている「信濃の国」について、無料メルマガ『安曇野(あづみの)通信』の著者で県下松本市出身のUNCLE TELLさんが更に詳しく紹介してくださっています。

長野県歌「信濃の国」物語

連なる国は十州に…」、知る人ぞ知る、長野県民にはおなじみ100年余の歴史がある「信濃の国」の歌にまつわる物語をお届けする。

よその県、たとえば聞くところによれば、静岡県は富士市にも長野県人会があって、集会の最後には必ずや例の県歌「信濃の国の大合唱があるというのである。この歌は異郷の地にあってこそ、その真価を発揮するというか、思いが込められるようである。甲子園でも歌うようだし…。長野県人というのは、すぐ県人会なるものを作りたがる種族のようで、移民先の南米やアメリカにもあるという。

ところで、県人会を作るからといって、結束が堅いかというとどうも疑問符が付く。まあ、異郷の地では結束するかもしれないが。

他の県にもあるかもしれないが、長野県では明治の初めから、筑摩県の分割、長野県への合併以来、東北信(長野以北・上田・小諸・佐久地区)と中南信(松本・大町・木曽・諏訪・伊那・飯田地区)の仲が悪く、血が流れた分県あるいは県庁を移せという騒動も何回か起きている。

つい戦後の1948年(昭和23年)にも県庁を松本に移せという大騒動があり、この時は県会の議決まで行っている。数的には中南信側がわずか有利だったのにかかわらず、結局は北信側の巧みな戦術に負けそうはならなかった事実がある。しかし、私も松本出身でその気分のようなものはわかるのだが、その怨念みたいなものは、現在まで有形無形に引きずってきている。

その県会のただならぬ空気の中で、北信の一議員が歌い出した「信濃の国」が議会全体の大合唱になり、中南信提出の県都移転案は腰砕けになったと、伝説のような話しも残っている。

だいたい中南信には県の名前に「長野が付いていること自体良しとしないムードも伝統的にないとはいえないような…。だから中南信に作る公共の施設等に「長野」の名を付けるなどはまかりならぬというような、だから施政者も余計な摩擦を生まないよう信濃とか信州とかを使ったケースが昔から多いのである。

そんなわけで、長野市と松本市は昔から仲が悪く、ライバル意識むき出し、いろんな施設やイベントなどの誘致では激しい争奪合戦をしてきた。

「信濃の国」の歌が県歌に制定されたのは、1968年(昭和43年)、全国的な県章、県花、県木などの制定気運の中で決まったものであるが、県民にとっては「なにを今さら」と面はゆい感じもあったのだろう。なにしろ「信濃の国」の歌は、明治の中頃から一世紀近く県民に歌い継がれてきた歴史があるのだから。

この歌は元々、小学校の運動会で歌う歌だった。今でも小中学校の運動会のプログラムの最後のところには「信濃の国」斉唱、とちゃんとあるのかも。

この歌が作られたのは1899年(明治32年)から翌年の1900年。信濃教育会(これも他の県にはないもの)の作った小学校唱歌の一つだったといわれる。作ったのは長野師範学校の先生の浅井烈、作曲も同じ師範学校の先生だったが、歌詞に合わせて歌うにはちょっとむずかしく評判がどうもかんばしくなかった

そこでかその師範学校の女子生徒達が運動会の遊戯用にと別の先生に依頼。こうして出来上がったのが現在のもの。なかなかいい曲、名曲ということで、現在ではマーチなどにも編曲されている。

かくして県下の小学校の運動会で歌われるようになり、次第に県民全体のものとして浸透していったと思われる。前に述べたとおり、長野県では1881年(明治14年)から1958年(昭和33年)まで、分県や県庁移庁運動が前後9回も起きたという実情もあり、この歌が県民の融和統合に大いに役立ったとされる。

満州へいった開拓団が、ハワイやカルフォルニア、そして南米に渡った移民達が望郷の思いで涙を流しながら歌ったであろう信濃の国、その信濃の国が小中学校ではわからないが、県内にいる一般の大人達は、近年どうもあまり歌わなくなっているらしい。そういえばこの私も4、5年は歌った覚えがない。それより以前は宴会で歌うこともあったが、歌うとすれば、その一番最後のお開きに歌うものと相場は決まっていたもの。

私が行ったのはもうかなり前だが、都市対抗野球で長野市代表が後楽園で戦った時、応援団のリーダーが「信濃の国」歌うよ、と指示があった時、おおッ! と思ったものである。多分、高校野球の甲子園でも歌われるのだろう。

1998年の冬季長野オリンピックがも終わってはや20年近く、県民にも長野オリンピックを知らない世代が増えてきた。そのオリンピックでは、開会式・閉会式で県下各地の祭りや伝統の行事・花火が広く紹介され、大成功裏に終わり県民の気分志気も大いに盛り上がったものである。

そして我が県歌「信濃の国」もこの上ない晴れやかな舞台で日本中、いやテレビの電波に乗って世界中に披露されたのである。そう、開会式と閉会式で日本選手団の入場行進の曲として会場に響いたのである。このときの会場やテレビを見ていた県民は、きっと誇らしげな気持ちではなかったかと思う。歌の後半では、会場の県民はみな合唱していたようだ。テレビを見ていた県民も、県出身者も。そうして「信濃の国」のよさをしみじみ再認識したのではないだろうか。

また以前、NHKローカルのドキュメントテレビ番組、「信州、激動の20世紀(教育編)」では「信濃の国」と明治以来の「南北対立」が取り上げられていた。見たと記憶している方もおられるだろうが。もっともサラリとした扱いだったが。

もちろん私達はたやすく「信濃の国」を忘れるといようなことはないだろうけれど、異郷の地でのみ生きている、歌い継がれるということにしてはならないと思う。

image by: Shutterstock.com

『安曇野(あづみの)通信』

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発刊以来10年、みすずかる信濃はアルプスの麓、安曇野を中心に信濃の光と風、懐かしき食べものたち、 野の花、石仏、植物誌、白鳥、温泉、そしてもろもろ考現学などを、ユニークな(?)筆致でお届け!

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