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「超時空要塞マクロス」は35年前、どんな未来を描いていたのか?

スマートフォンの普及やSNSの発達で、すぐに誰かと繋がることができるのは当たり前の世の中になりました。アニメ・特撮研究家で明治大学客員教授の氷川竜介さんは、まぐまぐの新サービス「mine」で無料公開中の、氷川さんの記事の中で、前回の『「アニメに描かれた未来」を16年前に考察。何が実現していたか?』という記事に続き、35年前に放送されたアニメ「超時空要塞マクロス」を題材に、「アニメの描いた未来」と「現実の未来」のギャップについて数回に分けて紹介しています。今回は「通信」をテーマに、この原稿が書かれた2002年時点と1980年代との「コミュニケーションの価値」の違いに着目。放送当時に比べ、私たちのコミュニケーション価値は上がったのでしょうか?

※以下は2002年に執筆された原稿です。

《前説》

「2002」は上から読んでも下から読んでも「2002」。この前そんな年はいつかと考えたら割と近くて1991年でした。11年前のそのときはあんまり話題にならなかったんですが、その前だと1881年。この次は2112年。回文になっている年は、ここ2回だけが近接していて、他はだいたい100年に1回って感じ、数字ってこういうところが面白いです。そんな貴重な2002年が皆様にとって良い年でありますように。

●流れの中の転換ポイント

2001年が終わって、何となく21世紀が普通になったような、そんな2002年最初のタイミングでの「アニメの未来話」です。前回に続いて、『超時空要塞マクロス』をネタに、ちょうど20年前に描かれた未来世界における「通信」を語ってみましょう。

未来像の変化ということで、「通信」の扱いをもう少しつっこむと面白いものが見えてきます。

電話が重要な役割を果たす例として、第21話「ミクロ・コスモス」(脚本/大野木寛、演出/笠原達也)を取り上げててみましょう。ヒロインのリン・ミンメイが初主演した映画のお披露目をするというエピソードで、特に派手な戦闘シーンがあるわけでもなく、ドラマの愁嘆場があるわけでもないのに、改めて見ると意外に印象的になってくる回です。

主人公の一条輝はミンメイのことが好きだけど言えない。そしてもう一人のヒロイン早瀬未沙は、かつて好きだった男性の面影を、ミンメイのいとこでマネージャーのカイフンに見ている。映画のイベントをそれぞれの思いで見に来た2人は、ミンメイとカイフンのキスシーンにいたたまれなくなり……というのが大筋です。

後に輝と未沙が結ばれるという四角関係を念頭に置いて見直すと、一見して静かな展開の中に、言いたいけど告白できなかった、というモラトリアムな関係が崩れていき、輝と未沙が改めて互いを意識し合う、シリーズの転換ポイントにあたるエピソードです。

●伝言ゲームが生むドラマ

さて、この回では電話とそれを介して行われる「通信」が、さりげなくも重要な役割を果たしています。

ドラマは作品を引っ張っていくもので、その本質とは人間関係や心情の変化です。ではそのドラマを発生させるものとは何でしょうか。いくつか定番の手法がある中で、ドラマとは葛藤であり軋轢(ストレス)から生まれるものが多いことに注目すると、登場人物同士の抱く「誤解」はかなり基礎的な位置づけのものでしょう。

この回でも「電話」によって一種の「伝言ゲーム」的誤解の火種が生じ、そこで生まれた溝がだんだん大きくなっていくプロセスが、ドラマとして描かれています。

ミンメイは自分の映画に輝を招待しようと考え、電話をします。ところが輝は外出中で、宿舎の受け付けのおじさんが代わりに出てしまう──。そこでミンメイは自分が押さえた座席番号と招待の件を伝言するわけですが、輝が戻ってくると、ミンメイからの電話があったというだけで舞い上がってしまい、伝言部分をみなまで聞かずに外の公衆電話に走り出てしまうのです。あとは当然予想される通りの展開でして、輝がかけてもミンメイの方が今度は不在、いわゆる「白ヤギさん黒ヤギさん状態」(笑)が発生するわけです。

結果、輝は一般チケットで入場することになってしまい、遠くからミンメイを見つめ、ミンメイはせっかく用意した最前列の席が空席なので残念に思う──これは物語全体から見ると、かなり決定的な食い違いが起きた瞬間です。その発端は、どこにでもありそうな、日常のささいな「ボタンのかけ違い」です。

この日常的リアリティがドラマ全体のリアリティの重みづけにも大きく作用するという、テコの原理みたいなことが発生しているわけです。

●遠距離の心をつなぐ通信

第21話後半では、輝と未沙、それぞれ好きだと思いこんでいた人との距離を感じた者同士がトランスフォーメーションで発生した閉鎖区域から出られなくなります。これは初期の話で輝とミンメイがずっと閉じこめられていたときの一種の再演になっており、そこで二人が交わす何気ない会話によって、互いの気持ちの確認をしたというムードが微妙に出ています。

それを受けて、この近辺の回で「通信」が重要な役割を果たす回がもうひとつあります。第24話「グッバイ・ガール」(脚本/富田祐弘、演出/高山文彦)という回です。

ここでは、単身地球へ戻る未沙が出立間際の短い時間を使って輝に別れの通信をします(受けた輝側は電話)。これは、せっかく気持ちの近づいた二人が二度と会えなくなるのでは……という予兆を観客にもたらしています。それは離れていく未沙が顔の見えない電話を使ってまで、わざわざ輝に話をしたいということで欲求の大きさを現し、その上で交わされる内容が「別離」であることが、その予兆の誘因になっているわけです。

この伏線があるからこそ、さらにクライマックスの第27話「愛は流れる」(脚本/松崎健一、演出/石黒昇・笠原達也)にいたって、人類が全滅しかけて文字通り本当に「二度と会えなくなるかもしれない」という状況の中で、輝の未沙救出劇が最高に盛り上がるわけで、こういうところがTVシリーズならではの大きなドラマの仕掛けだと改めて思います。

●コミュニケーション価値と新時代のドラマ

この「通じなかった」と「通じた」の描写は、それぞれキャラクター同士の「縁」の深さにも直結していますが、改めて観ると当時の「コミュニケーション価値」みたいなものを如実に反映しています。

1982年の作品が予測した未来世界には21世紀であるにもかかわらず、「Eメール」も「携帯電話」もありません。それどころか、「留守番電話」も「ファクシミリ」すら登場しません。『マクロス』放映時ではこれらは存在しなかったか、一般的(コンシューマ的)ではありませんでした。何せ携帯電話の代わりに、公園には自走型のロボット公衆電話機が走っているという未来予測は、さすがにハズし過ぎという感じもします。

現在のように多様な通信ツールがあれば、少なくとも第21話におけるミンメイと輝の誤解はたちまち解消されてしまいます。留守番電話であれば本人の肉声で用件は伝わりますし、ファクシミリであれば肉筆プラス場所などの情報が送れるし、まず紙として残るから、仲介したとしてもミスは皆無です。Eメールなら「了解です」と返事を送れるから読んだかどうかも瞬時で伝わります。携帯電話ならさらに不透明事項を会話による質疑でリアルタイムに確認可能です。

となると、通信ツールの種類によって、ミンメイと輝、あるいは未沙と輝の距離もまったく変わってしまうことになるわけです。これは互いに条件がそろって同じ時間が共有できないと電話で意志が通じなかった時代の、気持ちを通じさせるというありがたみ──すなわち「価値」が、今とはまったく違うということになるのではないでしょうか。

そう考えてくると、たとえ空には宇宙ステーションが存在せず、月面に基地が建設される気配もなく、道にエアカーは走っていなくとも(笑)、通信に関してはそれなりの「未来」にいるという認識がひしひしと強くなってきますね。自分自身が外出先でも携帯電話から「了解」と業務で届いたEメールに返事を出したりすると、なんとコミュニケーションは豊かになったのだ、と20年近くを通信の技術屋として過ごした身には感無量です。

思い起こせば確かに1982年当時は「コミュニケーション貧乏」だった(笑)。電話を自室に引いていない友人もいたし、実家の家計に響かせないためにわざわざ外の公衆電話から友人に長電話をしたことも数知れず。そもそも好きな話題を好きなときに語れる相手の絶対数も、今に比べると圧倒的に少なかったです。

コミュニケーションは確かに豊かになりました。この10年20年でこれだけコミュニケーション手段が変わってくると、ドラマの公式がゆらぐのも当然のことでしょう。「連絡が取れない」というディスコミュニケーションがドラマを転がすという展開は実に多いですから、数年前の作品でも今の目で見返すと「意志が通じない」状況がやけに多いことに違和感を抱くのではないでしょうか。

では現在、コミュニケーション手段が充分に発達したから、まったく軋轢やストレスが無くなり、ドラマ作家が失業してしまうほどみんなが意志をスパスパと通じさせたお花畑状況が訪れているかというと、実はまったくそんなことは無かったりします(笑)。

気軽になった──いや、なり過ぎた電子コミュニケーションは、人間の未知の暗黒面を開いて新しいドラマを現在進行形で発生させつつあると思います。これも、インターネット以前のパソコン通信NIFTY-Serveの黎明期から14年くらい、「ネットのトラブル」を当事者になったり野次馬になったりして数知れず観察して来た著者の実感です。

メールや掲示板を使うとどんなトラブルが起きてどんな葛藤が発生するのか、携帯電話を使ってどんなドラマが生み出せるか、それを自然に表現して大衆の生活感覚にマッチさせることは、アニメに限らずこれからの「21世紀のドラマ」づくりの最重要課題になるのではないでしょうか。

【2001年12月17日脱稿】初出:「月刊アニメージュ」(徳間書店)

※この続きはまぐまぐの新サービス「mine」で読むことができます。

image by: マクロス公式HP

氷川竜介

氷川竜介

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1958年兵庫県生まれ。アニメ・特撮研究家、明治大学大学院客員教授。東京工業大学卒。文化庁メディア芸術祭審査委員、毎日映画コンクール審査委員などを歴任。日本SF作家クラブ会員。海外での展示会・映画祭での講演経験多数。文化庁向けに「日本特撮に関する調査報告書」「日本アニメーションガイド ロボットアニメ編」を執筆。主な編著、参加書籍:「20年目のザンボット3」(太田出版)、「世紀末アニメ熱論」(キネマ旬報社)、「アキラ・アーカイヴ」(講談社)、『細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション』(祥伝社、2015年)、「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム from 1989」(国書刊行会)など。

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