それぞれ戦国時代・IT時代を駆け抜けた織田信長とスティーブ・ジョブズ。無料メルマガ『戦略経営の「よもやま話」』の著者・浅井良一さんは、この両者には時代や国籍を超えた共通点がいくつもあると指摘します。さらに、その共通点には「優れた経営者」としての基本姿勢が揃っている、とも。浅井さんの言う優れた経営者の基本とは、一体どのようなものなのでしょうか。
「跳躍」(イノベーション)
戦国時代というのは、力そのものが生きて行く術で、生の人間が浮き彫りにされる時代であり、それ故に現在にも通じるマネジメントの効用が分かりやすい時代であると言えそうです。
少し脱線気味ですが「正しいこと」ということの難しさ、「正義」について考えてみたいと思うのです。
室町将軍を尊崇し、自身の欲望のために合戦を行わなかったとされる上杉謙信ですが、その合戦においての他国領での「焼き討ち」は容認しています。欲少なく「正義」を重んじる「聖将」上杉謙信ですが、その「正義」の執行については現在からみるとその価値領域ははなはだ限られています。
これに対して自分を神にも擬した織田信長ですが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスとの問答で「神仏は、人を楽にしていないではないか」と言っており、信長の視野には農民の安楽が視野にあったようにも思えます。天下統一が視野にあった信長は、配下の軍団に対して収奪は一切認めず兵糧の調達は代価をもって行っています。
ここで誤解を招きそうなので少し補足しますが、信長がリンカーンのように「奴隷解放」を旗印にしたのではなく「天下布武」を行うにあたって、農民の支持が必要で余計な敵(一揆)をつくらないということで、むしろ今でいう「世論を味方につける」という感覚が明確にあったからでしょう。
「天下布武」は信長が自身のミッションを明確に示した「経営理念」の表明で、これだけをみても時代を超えたマネジメントのあり方を示します。ただ、織田信長もまた人だったので、資料によると少し揺らぐこともあり、さらに結構ユーモアを解したようです。しかし、その行動はあたかも中国の古典である一切の甘えを排した「韓非子」のシビアな合理性でかつ合目的な行動美を実践しております。
織田信長は、無意味な先入観や偶像を一切持たなかったと言われています。そしてその目標は明確で、その目標である「天下布武」というビジョンの達成に向かって労力を惜しむことなく、必要なすべての情報と知識を集めて決断し、行動を起こしていました。
信長はいっさい人の忠告を聞かなかったと言われていますが、聞かなかったのは忠告であって情報や知識は貪欲に収集をおこなっています。それもポルトガル宣教師などの最先端の情報には、非常な興味を持って聴き取って、そして先入観なしに理解しているので、地球が球体であることも正しく理解していたそうです。
ここには、あるべき経営者としての基本姿勢の原型が示されています。情報と知識は先入観と予断なくあらゆる人から、あらゆるところから金に糸目をつけず収集し、そして意思決定においては誰にも頼らず、ここでも先入観と予断なく決定し、そして決断したことは直ちに行動に起こす。そして、失敗したら全体構想に鑑みて直ちに修正し再行動を行います。
経営者には先入観と予断なくという前提のうえで、また絶えずアンテナをはったうえでの話ですが、正しいと確信したなら跳躍しなければなりません。誰も行っていないこと、前例のないことに跳躍するのは恐怖です。しかし跳躍のない経営は、間違いなくゆるやかか急激かは別として確実に衰退し、やがて崩壊に向かうのが定めです。
織田信長は独特の死生観を持っていました。「人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり」の謡を好み舞ったのはテレビドラマでもよく出てくるシーンですが、虚無感と美意識と意志力でもって時代の定式を超越して切り開いて行きました。
その美意識においては、パソコンのプリント基板にも美を求め、前例のない商品を創り出したスティーブ・ジョブズのあり方とどこか共通している趣がありそうです。
ここからまた飛躍した結論付けをしますが、マネジメントの目的を「顧客創造」と言っていますが、最も模範的なのが、信長やジョブズのような美意識を持った人材によって行われる時代を切り開く「跳躍」行動でしょう。