親日家を超えた「愛日家」。台湾の偉人・蔡焜燦氏90歳の生涯

 

戦中、戦後と蔡焜燦氏を支えてきたのは「日本精神」でした。彼は心から「日本精神」を敬っており、愛情を込めて「ジップンチンシン」と台湾語読みで言っていました。この言い方は、台湾のみならず台湾を知る日本人の間でも流行したものです。

では、日本精神とはいったいどんなものなのでしょうか。それは、新渡戸稲造の言う「武士道」だけではありません。江戸時代までに熟成した日本文化であり、開国維新後の明治人によっていっそう開花された精神でした。

それが文明開化の波に乗り、台湾という南の島でも開花したのです。未知への好奇心、異域探険への冒険心、厳密にして徹底している科学探究心、土地を愛する心。日本精神には、これらすべてが含まれています。

そして、その極致として、護国の神となって土地に骨を埋めることを台湾人に教えたのが日本人でした。近代台湾をつくった日本人の功労者のなかで、まず挙げなければならないのは学校教師医師と警察です。また、社会建設に貢献したのは技師でした。

そもそも、日本統治時代以前の台湾は、土匪が支配する社会であったため、土匪の武装勢力を平定して警察が社会治安維持の主力となって、はじめて台湾に法治社会の基礎を築くことができました。

20世紀初頭の人類最大の夢は、夜警国家の樹立でした。また、台湾は識字者の少ない地でもあり、日本領台以前に学齢期学童の就学率は2%以下でした。しかし、日本による近代実学教育によって、台湾人は近代国家の国民として成長することができたのです。

日本統治時代の台湾における学校数や教育内容は、日本国内のそれと比べても決して遜色ないものでした。戦前の台湾には4つの専門学校があり、教師は185名、生徒は841名でした。台北帝大などは、教師348名、生徒283名であり、学生よりも教師の数が多く、レベルの高い行き届いた教育がなされていたのです。

今では「植民地支配者侵略者と見なされている戦前の日本人はじつに立派でした。ことに明治人は新生日本、国民国家の国造りを目指して「お国のため」一筋、進取の精神に富み、明治人の気骨を持っていました。

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