こうして、戦後から現在までの台湾を振り返ると、台湾が白色テロ時代のような悲惨な時代を経てもなお志高く、独自路線を歩むことができているのは、地理的条件などの要因ももちろんありますが、やはり日本時代の教えがあったからではないかと私は考えています。
台湾人は日本時代に多くを学びました。インフラ整備など物質面でも多くを日本から与えられましたが、それ以外に衛生観念、公共精神、報恩の精神、武士道精神など精神面での教えも非常に多くありました。
台湾人は、日本人として戦争を戦い、日本時代の教えを得たことで強くなったのです。信念を貫く精神、長いものには巻かれない精神を持ったのです。その精神があったからこそ、台湾独立への志は失われず受け継がれ、蔡英文政権率いる台湾の実現を可能としたのではないでしょうか。
また、毎年終戦記念日を迎える頃になると、台湾人の元日本兵という輩が登場して、戦後補償が全くないのは不公平だとか、自分たちの日本との戦争はまだ終わっていないだとかメディアで言っています。今年は、以下のような記事がありました。
日台の絆は台湾人が日本人として共に戦争を闘ったときからすでに不動のものとなっていました。こんな小細工で亀裂がはいるような安物ではありません。戦後73年間ずっと同じことの繰り返しです。
それと同じく、私は戦後の台湾を生き抜いてきた生き証人としての経験と、台湾と日本に抱く情熱を、繰り返し多くの人々に伝えたいと思っています。そして、戦争を知らない世代との温度差を少しでも縮めることができたら本望です。近刊を予定している著書もそのような内容となっておりますので、ぜひともご高覧頂けたらと思います。
2018年の今年は、ちょうど明治維新150年の節目になります。私は戦中世代です。戦中世代が共有する記憶といえば、空襲、疎開、サイレン、水爆、探照灯、B29、赤とんぼ(航空隊の練習機をそう呼んでいました)などでしょう。私は、戦中は小学1年生でしたので、最後の日本語世代でもあります。
故郷の高雄州岡山街では帝国海軍最大の海軍航空隊基地がありました。最初にB29が投下した爆弾は、私のクラスメートの家に落ちました。私も、早朝の大きな爆発音で目覚め、親から危ないから行くなと制止されても野次馬として大人たちの群れに潜り込んで、爆撃地を見学に行きました。
幸い、その家の人々は山奥に疎開していたため死者を出さずにすみましたが、山から下りて家に帰ったら、家が木っ端微塵で、街はすっかり焼け野原になっていました。戦中、米軍が台湾に投下した爆弾のうち、約40%は私の郷里に落とされていたことは、後に米軍が公開した資料を見て知りました。
戦後は、小学校の半数は倒壊しており、木々にささった破片を取って集めて売った記憶があります。戦後は、国共内戦で破れた国民党軍と難民たちと一緒に小学校で過ごしたりもしました。その後、私が小学校4年生のときに二二八の大虐殺が起こり、私はその中にあっても生き残りました。