1945年「本土決戦」のイフ。日本必敗の決号作戦で“神風”が吹いた可能性

Adobe ImageReadyAdobe ImageReady
 

太平洋戦争の終結から75年。もし戦争があのまま終結せず「本土決戦」になっていた場合、日本軍は九十九里浜や南九州で、圧倒的に優勢な連合国軍を迎え撃つことになっていました。この「必敗」としか思えない作戦に、実は対極的な2つの評価があることをご存じでしょうか? 軍事アナリストの小川和久さんが主宰するメルマガ『NEWSを疑え!』では、静岡県立大学グローバル地域センター特任助教の西恭之さんが、本土決戦(決号作戦/ダウンフォール作戦)を詳しく解説。ある自然現象が、日本にとって「神風」になっていたかもしれないという海外識者の分析などを紹介しています。

小川和久さん主宰のメルマガ『NEWSを疑え!』の詳細はコチラから

 

日本が「本土決戦」をしていたら何が起きたか? 対極的な二つの考察

第二次世界大戦終戦75周年を前に、「日本が本土決戦をしていたら何が起きたか」というテーマで、対極的な二つの見方を紹介したい。日本は戦力を急速に失いつつあったので1945年の降伏は不可避だったという『米国戦略爆撃調査』の見方と、消耗戦となり、日本が壊滅するだけでなく米軍もかつてなく多数が死傷することになったという、軍事史家D・M・ジャングレコ氏の見方である。

決号作戦

日本側は1945年1月、本土決戦の本格的な準備を始めた。米軍はフィリピン・ルソン島に上陸しており、沖縄へ進攻するのは時間の問題となっていた。大本営は、米軍が小笠原諸島や沖縄など「前縁地帯」へ進攻した場合、持久戦によって出血を強いながら本土決戦を準備すること、本土決戦でも出血作戦によって、日本が朝鮮・台湾・満州を保持する条件での停戦を米国に強要する戦略を採用した。その陸軍作戦を決号作戦という。

陸軍は、主戦場になると予測した関東と九州の作戦を準備・指揮する、第1総軍と第2総軍を1945年4月に設置した。第1総軍(東京)は鈴鹿山脈から東の本州、第2総軍(広島)は西日本を担当した。また、航空総軍を設置し、陸軍航空部隊の指揮と教育訓練を一元化した。北海道・南樺太・千島列島は第5方面軍、朝鮮は第17方面軍、台湾・沖縄は第10方面軍が引き続き担当した。

日本本土の陸軍兵力は、1944年夏には46万人に満たなかったが、満州からの転用や、「根こそぎ動員」と呼ばれる45年2月、4月、5月の召集と部隊新設によって、200万人に達した。

日本陸軍は、米軍が1945年10月以後に宮崎市、志布志湾、薩摩半島西岸に上陸すると、正確に予測していた。九州の陸軍兵力(第16方面軍)は、45年4月末の4個師団強から、8月末までに14個師団、独立戦車旅団3個、独立混成旅団6個など90万人に増えた。その多くは、薩摩半島を担当する第40軍と宮崎・志布志湾方面を担当する第57軍に配備された。

新設された「沿岸配備師団」は、海岸の横穴陣地やトーチカとその背後の丘陵から、米軍の上陸部隊を制圧射撃し、そこへ内陸から「機動打撃師団」が前進して殲滅するという作戦構想だった。いずれも兵器が不足していたが、まず現地の地形に習熟し、その間に兵器を生産するという理由で配備された。

日本軍は米軍の九州上陸部隊の半数を、特攻機・特攻艇で撃沈することを計画した。旧式機は特攻機に、飛行訓練部隊は特攻隊にするという方針は、1万440機が対象となった。新型機2300機は対象外とされた。

戦艦大和喪失後、日本海軍は大型艦の航行を停止したので、水上・水中でも特攻が主な攻撃手段となった。7月末には、特殊潜航艇・蛟龍73隻、同・海龍252隻、人間魚雷・回天119隻、特攻艇・震洋2850隻(陸軍の700隻を含む)が配備され、生産が続いていた。特殊潜航艇は生還不可能ではないが、魚雷不足のため、海龍のほうは爆薬を積んで特攻することが前提となっていた。

本土の民間の15-60歳の男性と17-40歳の女性は、1945年6月23日の義勇兵役法によって、国民義勇戦闘隊という民兵に組織された。武器は、隊員各自が竹槍、刃物、弓矢、猟銃などを用意した。

本土決戦を想定して皇居、大本営、政府中枢機能を移転するための松代大本営(現・長野市松代町西条)は、1944年11月から建設され、賃金労働者(日本人・朝鮮人)と勤労動員者(日本人)が作業に従事した。進捗率75パーセントの段階で45年8月15日を迎え、工事は中止された。

小川和久さん主宰のメルマガ『NEWSを疑え!』の詳細はコチラから

 

print
いま読まれてます

  • 1945年「本土決戦」のイフ。日本必敗の決号作戦で“神風”が吹いた可能性
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け