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日本書紀や古事記にも出てこない富士山が日本一の山になった理由

正月の2日に見る夢を「初夢」と言いますが、今年はどんな夢を見ましたか? 日本人であれば「一富士、二鷹、三茄子」が縁起の良い初夢だということを知っていますが、富士山が憧れの対象となったのは実は江戸時代以降、とそれほど古い話ではないと教えてくれるのは、無料メルマガ『古代史探求レポート』。常に煙と火を噴き、荒れる東国、未開の国の象徴的活火山として畏怖された時代を経て、現在に至るまでのさまざまな富士山の伝説、伝承を紐解いています。

富士は日本一の山

日本の山と言えば、富士山。きっと、日本に観光にやってくる人々の全てが知っている名勝地であると思います。私は年に何度か、東海道を電車か車で行き来していますが、確かに富士山は非常に綺麗な山です。夏の一時期冠雪が消えますが、普段は頭を白くしてシンメトリーに近い形で、広く長い山裾を持つ円錐形の輪郭は本当に美しいと思います。

お正月も、すぐにやってきますが、初夢に見ると縁起が良いものとして「一富士二鷹三茄子」などと言います。一番縁起が良いのが、富士山を見ることです。なぜ、三番目が茄子なのだと不思議に思っていたのですが、駿河の名物を並べただけだと聞いた時は、少々拍子抜けしたものです。そうであったとしても、最初の夢に富士山が出てきたなら、本当に素晴らしい一年であるように思えるのではないでしょうか。

富士山という山は、日本人の心の中において特別な存在であると思います。自分自信を振り返って見ても、子供の頃は「頭を雲の上に出し、富士は日本一の山」という歌で、富士山を最初に学び歌いました。日本一の山であることに疑いもしませんでしたし、社会の時間には3776メートルの日本最高峰であることも学びました。私の中学校の修学旅行では、富士山の五合目ぐらいまでバスでいき、周囲を歩いて、その後、白糸の滝を見るというコースを経て横浜、東京へ行きました。

年が経つにつれ、安藤広重の絵や、多くの写真を目にするようになり、連なった山地の中にあるのではなく、独立峰であることが、孤高の美しさを表現しているのかもしれないと理解するようにもなってきました。

江戸時代には、富士講というものが盛んに行われるようになり、私の住む近くにも、多くの富士講が行われていた痕跡が残っています。特に、川口市の木曽呂には、見事な富士塚が残されています。火口も作られ、胎内めぐりの穴もあります。その場所から、富士山が遠くに見えたのだと思います。富士講は、皆がお金を出し合い、代表者が順に富士登山ができるという集まりでしたが、富士山への憧れがいかに大きなものであったかをいまに伝えています。

今でこそ、富士山を知らない日本人はいないと思いますが、富士山の知名度が高くなったのは、やはり鎌倉幕府以降のことであったのかもしれません。登山する山として、また、皆が身近な憧れとして富士山を意識したのは、江戸時代になってからのことのようです。考えて見れば、都が奈良や京都にあった時代に、未開だと考えられていた東国に人々が出向くということはほとんどなかったことと思います。

例えば、日本書紀や古事記において、東国の話が最初に登場するのは、日本武尊が東国の平定に向かう時です。駿河に至る、と書かれた文章の中に出てくるのは、野に火を放たれ殺されかけたのを、迎え火を燃やして逃れたという話です。焼津の語源になったという話ですが、富士山については一言も触れられていません。「一富士二鷹三茄子」などと言うのも、江戸時代以降の話であったようです。

平安時代の貴族は、知識として富士山の存在は知っていたのかもしれませんが、東国に赴任でもしない限り、生涯に渡って富士山を見る機会はなかったでしょう。そういう人々にとって、富士山は想像の中での存在であったでしょうから、美しさとは別に、神秘や恐怖のイメージを膨らませて行ったようです。今でこそ、富士山は休火山として、ただただ存在していますが、平安時代には何度が大爆発を起こすとともに、常に煙を吐いている山でした。

竹取物語に出てくる「富士」の由来

皆さんもよく知る竹取物語では、月に帰るかぐや姫が「不死の薬」を置いていきます。この薬は帝に渡されますが、かぐや姫のいない世界で不死であっても意味がないとして、富士山の頂上でこの薬を燃やすように命じます。この時、士をたくさん連れて山に登ったことから、士が富んだ山という意味で、富士山と命名されたということが書かれています。不死だからフジかと思うのですが、そうではないと物語は言います。

不死の発想と、富士とが被るのには理由があります。ご存知のように司馬遷の「史記」の中には、始皇帝に申し出た徐福が不老不死の薬を求めて東海に漕ぎ出たと書かれています。一度失敗し戻ってきますが、最後は戻らなかった徐福ですので、結末は不明なはずですが、釈義楚という人が「義楚六帖」という本の中で以下のように述べています。

「東北千余里に山有りて、富士と名づけ、また蓬莱と名づく。その山峻にして三面これ海。一朶上聳(いちだじょうしょう、一塊りでそびえる)して、頂に火煙あり、日中に上より諸宝の流下するありて、夜は即ち却りて上る。常に音楽聞こゆ。徐福此に止りて、蓬莱と謂う。今に至りて子孫皆秦氏と日う。」

竹取物語は9世紀末から10世紀初めに作られたとされてますし、この義楚六帖は10世紀中頃の作品であると言われています。つまり、10世紀には、日本にある富士山は、不死につながる仙人の住む山であり、また、不死の薬を焼いた煙が立ち上っていることからも、頂に火煙ありという記述からも、この時は活火山として噴煙をあげていたということがわかります。そして、この様子は日本の都だけでなく、中国にまで伝わっていたようです。また、「富士」という名前が、この時には既につけられていたことがわかります。

徐福の伝説が、富士山と混ざって、蓬莱山として認識されるようになったのは非常に面白いと思います。その子孫が秦氏であるというのは少し驚きですが、ここにもまた渡来人として活躍する秦氏と徐福の伝説が混ざってしまっているようです。また、活火山であったのであれば、この時代の富士山は、登山できるような山ではなかったのだと考えられます。

万葉集の中には、「なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上がらず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず くすしくも います神かも (中略)富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」という笠朝臣金村の歌が載ります。

笠朝臣金村の活躍した年を考えると、700年代の歌であることがわかります。火を噴く山の様子が歌われているともに、「います神かも」と言っています。神が住む山という認識はされていたのかもしれません。

日本書紀には、富士の話は出てきませんが、続日本紀によると、781年には「富士山灰ふり木葉枯れる」とありますから、この年には大きな火山活動があったのだろうと推測できます。日本後紀の中では、800年に「黒煙、夜火光天照、声如雷、降灰足柄道を埋む」と記録されています。この頃は、頻繁に爆発する活火山であったようです。

火を噴く高峰は、人を寄せ付けない厳しさがあったと思いますが、それに反して、聖徳太子が登ったという伝説があります。彼が27歳の時、甲斐国が献上した愛馬である黒駒に乗って、その飼育係であった舎人の調使麻呂(ちょうしまろ)とともに、富士山頂上に至り、信濃、越後、越中、越前を経て都に戻ったとされています。確かに、現在でも富士山頂の一つに駒ヶ岳という場所があります。これは、聖徳太子の伝説からつけられた名前なのだそうです。

この聖徳太子の話は、藤原兼輔の「聖徳太子伝略」に書かれているのですが、どう考えてもこれは出鱈目です。900年代に書かれた書物ですが、この時は富士山も活動を休止している状態であったのかもしれません。ただ、馬で登るなどあり得ない世界です。

平安時代の貴族である都良香(みやこのよしか)は「富士山記」の中で次のように述べています。「相伝ふ 昔役の居士ありて、その頂に登ることを得たり。後よじ昇る者、皆額を腹の下につく」ここでいう「役の居士」とは役小角(えんのおづの)ことで、役行者と呼ばれた修験道の開祖です。「額を腹の下につく」とは、額を山腹につけると言うことです。現代風に言うと、さしずめ山肌にキスをしたと言うことになるのでしょうか。

役行者は7世紀の人です。彼が、本当に富士山に登ったかどうかはわかりません。葛木山で修行を重ね呪術を習得した彼は、60歳を超えてから、人々を言葉で惑わしていると言う讒言により伊豆大島へ島流しになります。この時、人々は、昼は伊豆大島にいて、夜は富士山で修行していると言い伝えたのです。彼もまた、実際には富士山には登っていないのかもしれませんが、昔は富士登山の吉田口に役行者堂があり、役行者の坐像が飾られていたのだそうです。

浅間神社の「浅間」は、「アサ」と「山」の合成語?

富士山にある富士山本宮浅間大社は、全国各地にある浅間神社の総本山とされています。私の住む、さいたま市の部屋の近くにも、浅間神社(せんげん神社)があります。富士信仰と合わせて勧進されたようで、浅間下には参拝者のための街もあり、今でもその地名を残しています。そもそも、「せんげん」なのでしょうか「あさま」なのでしょうか。そして、なぜ、富士神社ではなく、浅間神社と呼ぶのでしょうか。

群馬県と長野県の境に、浅間山という活火山があります。軽井沢にある山と言えば、おわかりの方も多いかと思います。浅間という言葉が、どうやら活火山を示しているようなのですが、なぜ浅間なのかという正確な由来はわかっていません。私は、「アサ」と「山」の合成語ではないかと考えています。アサは朝につながる意味ですが、火を噴く、火が出るという意味だと思います。九州の阿蘇のアソも同じ言葉ではないかと思うのです。つまり、古代日本語で火が出ることがアサであったのだろうと思うのです。

つまり、富士山の浅間大社は、霊峰富士を拝むための神社であったのでなく、活火山の富士山を鎮めるために作られた神社であったのだろうと思います。浅間神社の祭神は、木花之佐久夜毘売(このはなさくや姫)です。この姫は、天孫降臨を行った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の奥さんです。木花之佐久夜毘売は一夜で身篭ったため、ニニギは自分の子供ではないのではないかと疑いました。この疑いを晴らすため「ニニギの本当の子なら何があっても無事に産める」と願をかけ、なんと産屋に火を放って出産したのです。

富士山本宮浅間大社の由緒には、「富士本宮浅間社記によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。」と書かれています。また「富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。」とあります。

あくまで火山鎮火の神であり、だからこそ、ニニギの怒りを、火を使って沈めた木花之佐久夜毘売が祭神に当てられたようです。最初は、地の神への祈りの場であったようにです。

こう見てくると、富士山を霊峰富士などと言うようになったのは、それ程古い話ではないようです。竹取物語や万葉集が示すように、孤高の山は確かに美しく神々しい山であったのでしょうが、それを知っている人が多くいたわけではなく、また、その山を見ていた人も美しさ以上に恐怖があったのだと思います。富士山は、古代は荒れる東国、未開の国の象徴的な存在として、そして、活火山としての恐怖でしかなかったのかもしれません。それが、かぐや姫の伝説のおかげで、仙郷の蓬莱山と結びつき、そのイメージを仙人の住む山へと変えていったようです。

富士山は本当に綺麗ですが、富士火山が爆発すると、その被害は甚大なものとなり、規模によっては東京を麻痺状態に陥れることになるのかもしれません。貞観の噴火と言われる、864年から2年間にわたる大噴火により、富士山の北西山麓を溶岩で埋めたとされています。これ以降も、度々噴火を起こしてきた山であり、決して火山活動を終えたわけではないのです。大変危険な山には違いないのですが、幸いにも、今は、荒れ狂う姿も見せず、煙もはかず、静かに佇んでいるばかりです。

都良香は富士山記に、こうも綴っています。貞観の大噴火から約10年後の富士山です。「貞観十七年十一月五日、吏民奮きによりて祭りを致す。日午に加えて、天甚だ美しく晴る、仰ぎて山峰を観るに、白衣の美女二人有りて、山の頂の上に並び舞う。頂をさること一尺あまり、土人共に見る」

祭りによって山の神の機嫌を取ったせいでしょうか。青空の下、雄大な姿を見せる富士山が描かれています。まさしく、かぐや姫が似合う霊峰富士の姿です。現在の富士山頂にも、白衣の美女二人が舞う姿が見れるようです。現代に生まれた私達は幸せなのかもしれません。

今年、富士山の近くを通り、里帰りをされる皆様は、是非、白衣の美女の姿を眺めて見てください。

image by: shutterstock.com

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