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京都の待ち合わせは、土下座前。思想家・高山彦九郎の像を訪ねて

江戸時代、日本橋を起点とする東海道五十三次は京都三条大橋をゴールとしていました。かつて、京都見物はこの三条大橋から始まったと言われています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、そんな三条大橋近くにある京都人なら誰もが知っている「土下座」について紹介しています。

京都人の待ち合わせ場所・土下座前

京都・三条大橋の東詰にちょっと風変わりな銅像があります。正座をして両手を前につけ、顔を上げた姿をしています。この銅像は高山彦九郎(たかやま ひこくろう)の像です。幕末の志士たちに大きな影響を及ぼした江戸時代中期の人物です。 今回は江戸時代の思想家・高山彦九郎をご案内します。

巨大な彦九郎の銅像は地元では「土下座と呼ばれ京都人の待ち合わせ場所のひとつになっています。「土下座前で会おう」と言ったりします。確かにこの銅像は土下座をしているように見えますが、土下座をしているわけではありません。台座には「京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって礼拝した」と記されています。この銅像の姿は御所に向かって礼儀正しく拝んでいる姿だったのです。

1747年、高山彦九郎は上野国新田郡(現在の群馬県太田市)の豪農の二男として生まれました。彦九郎が13歳の時に太平記を読み高山家の先祖が新田義貞の家臣であったことを知ります。新田義貞は、室町時代に後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒幕した人物です。

南北朝の騒乱で後醍醐天皇の南朝が敗れ、新田義貞ら南朝の臣たちは次々と倒されていきます。彦九郎は天皇に尽くした忠臣がなぜ倒されねばならないのかと憤慨し勤皇思想に傾倒するようになりました。そして彦九郎は18歳尊王の志を抱いて京都へ向いました

京の玄関口三条大橋に着くと彦九郎は皇居の方向に向かって地面にひれ伏し突然号泣したと伝えられています。自分は国に尽くすために上京したという内容の言葉を発して号泣していたようです。銅像はこの時の彦九郎の姿を再現したものなのです。

彦九郎は御所の姿を目の当たりにし天皇の復権のために人生を捧げることを誓ったと言います。その後、彦九郎は全国を渡り歩きながら尊王論を説いてまわったことが伝えられています。

彦九郎は足利家の菩提寺・等持院で尊氏の墓に向かってののしり罪人への拷問で使う竹製の刑具で墓を叩いていたそうです。高山家からすれば尊氏は先祖の敵です。後醍醐天皇をないがしろにした尊氏がどうしても許せなかったのでしょう。

彦九郎の勤皇思想は徐々に幕府から危険視されるようになり、危険を感じた彦九郎は久留米の友人宅に身を隠していました。ところが1793年彦九郎は突然自刀してしまいます。京都の方角に体を向けて、柏手を打ち、そのままの姿勢で座り続けたとのことです。

彦九郎の自刃の理由は今も謎のままです。ただ、彦九郎が全国に広めた尊王論は、吉田松陰をはじめ維新という一大事業を成し遂げるさきがけになりました。

その後幕末の勤皇の志士たちに、多大な影響を与えることになったことは確かです。

三条大橋の彦九郎の銅像は、国の一大事があればいつでも天皇のために立ち向かうぞという意気込みを感じます。歴史上あまり有名ではないものの後世に多大な影響を与えた彦九郎の存在を感じながら見上げてみて下さい。

京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Ogiyoshisan [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

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【著者】 英学(はなぶさ がく) 【発行周期】 ほぼ週刊

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