1989年6月4日、民主化を求める学生らを中国当局が武力弾圧した「天安門事件」が発生。その前後2週間に亘り、上海に滞在していた軍事アナリストの小川和久さんが、当時見聞きしたことを自身のメルマガ『NEWSを疑え!』に綴っています。普段から「NEWSを疑う」小川さんが、中国報道に関しては特に「本当の中国」を見なければと、心に刻むきっかけとなった光景とはどんなものだったのでしょうか。
血の日曜日in上海
30年前の1989年6月4日を思い出しながら、このコラムを書いています。私は1989年5月24日から6月6日の間、上海の復旦大学に滞在していました。復旦大学は、日本でいうと京都大学に当たる名門です。学生がストライキ中だったので、私は復旦大学の先生方に日米安保について講義するため、上海市人民政府高等教育部から招かれたのでした。
中国動乱の兆しは、既に私が上海に入った5月24日頃にも現れていました。共産党中央軍事委員会主席の鄧小平氏が南京軍区と協議するために密かに上海入りしたり、カナダなどに脱出しようとしている中国人が空港や駅に溢れていたり。間違いなく、動乱の「臭い」が漂っていました。
6月3日、「北京に異変の兆候あり」を告げる色んな噂が飛び交い始めました。共同通信のT上海支局長に聞くと、「天安門広場で戒厳部隊が動き出し、催涙ガスを使っているらしい。これに対して、市民が車やトラックでバリケードを築いて阻止しているようです」とのことでした。それでも、暢気な私は大ごとにはならないだろうとベッドに入りました。しかし、翌朝、目を覚ますとテレビの画面は李鵬首相の顔が大写し。
なにやら重大発表を行っているらしく、間もなく「戒厳部隊指揮部北京人民政府通告」というテロップだけの画面に変わると、「イー(1)、アール(2)、サン(3)、スー(4)」と、四項目の通告が繰り返し読み上げられていきました。
それから3日間、私は上海のバリケードのなかをうろつくことになりました。そのときのことは、『情報フィールドノート激動の世界を読む』(講談社文庫)に3章を割いて書いてあります。
タイトルだけをご紹介しておくなら、「血の日曜日in上海①天安門事件発生」、「血の日曜日in上海②嵐の前ぶれ」、「血の日曜日in上海③党が鉄砲を支配する」です。いま読み返してみても、我ながら結構面白く書けています。
その天安門事件について、今回、ひとつだけ書いておくとすれば、マスコミが伝えるのは、テレビの画面や新聞の紙面に切り取られた一部分だけだということです。確かに、中国は危機に直面しており、共産党側も、民主化運動の側も必死だったのは間違いありません。
死者も、中国政府が発表している319人ではなく、当時の英国大使の外交機密電報にある1万人はともかく、数千人は出ていたのではないかという印象です。 しかし、中国の庶民の暮らしは戒厳令下でも日常と変わりなく営まれていた部分もありました。象徴的だったのは、バリケードの横の光景でしょう。上海でも大通りにはバリケードが築かれ、街路灯の下で民主化運動側による政治集会が行われていました。
しかし、その横の同じ街灯の明かりの下では、なんと、平然とビリヤードやコントラクトブリッジをしている人たちもいたのです。日本の尺度で考えると、民主化運動の側から「こんな時に遊んでいるなんてけしからん」と詰め寄られそうですし、官憲からも追い散らされそうな光景ですが、そんな気配はどこにもありませんでした。
私をエスコートしてくれていた上海国際問題研究所のOさんが言いました。「これも中国なのです。こういう光景は何千年も変わらず続いてきたのです」それもあって、特に中国報道については、そのニュースの裏に拡がっている「本当の中国」に目をやるように努めてきました。
当時、日本のマスコミ各社は「危険防止のため」として、特派員をバリケードの内側に入れませんでしたから、多分、日本人は私だけだったと思います。滅多に見ることのできないことを見聞することができ、ずいぶん、得をした気分になりました。(小川和久)
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