人類は膨大な時間をかけ、知恵と技術を積み重ねてきました。建築などは機械のない昔の人々を思うと、途方もない作業だったことが想像できます。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では作家の童門冬二さんが、明治の技術者「服部長七」の逸話から江戸時代の「熊沢蕃山」が作った堤を紹介。「先人の知恵と技術」に思いを馳せます。
明治の技術者をうならせた熊沢蕃山の築堤
熊沢蕃山(くまざわばんざん)といえば、陽明学者の中江藤樹に師事し、江戸前期の名君といわれた岡山藩主池田光政の藩政改革を補佐した人物として知られています。その蕃山が、明治時代の技術者をうならせたという逸話があるそうです。
逸話の主人公は、日本の築港技術者として明治時代に活躍した服部長七(ちょうしち)。童門先生ならでは臨場感溢れる服部と知事や役人のやり取りをお楽しみください。
新代表的日本人 童門 冬二(作家)
熊沢蕃山は、江戸時代の実学者として知られている。「かれは陽明学者だった」という説もあるが、必ずしもそうではないらしい。かれは、朱子学にも造詣が深かった。朱子学と陽明学の長所を混合した学説を立てていたとみてもいいのではなかろうか。
蕃山は名君といわれた備前岡山藩の藩主池田光政に仕えて、藩政を指導した。蕃山の唱える学説は「心学」と呼ばれたが、徳川幕府首脳部は警戒していた。「心学は、社会の秩序を乱す危険性がある」とみていたのである。そのため、蕃山はやがて致仕し、領内の知行地に隠居した。知行地を“蕃山(しげやま)村”と地名変更し、ここで農業指導をした。後に、備中松山(現在の岡山県高梁市)の、農民出身の家老だった山田方谷がすすめた屯田制度は、この蕃山の流れを引くものだ。
熊沢蕃山は農業指導だけではなく、土木建設工事の知識や技術も持っていた。かれが築いた岡山港の堤は有名だ。この堤防について面白い話がある。
明治になってから日本の築港技術者として有名なのが服部長七だ。広島県の宇品港をはじめ、岡山港、神戸港、佐渡港などの新造や、改修工事の指揮を執った。変わった男で、それぞれの港でのエピソードがある。
宇品港の築港を命ぜられた時は、毎日船を出して釣りをしていた。仕事を頼んだ知事が怒った。
「釣りばかりしていないで、早く仕事をしろ」
すると服部はこういい返した。
「伊達に釣りをしているわけではありません。わたしは毎日魚を釣るのではなくワラジを釣っているのです。つまり、毎日ワラジが釣れるということは、海の底の流れが穏やかで、ここなら港を造っても大丈夫だという地点を探しているのです」
知事はいい返す言葉を失ったという。
佐渡港を造る時は、「おれの技術は、水の神と風の神からの直伝だ」とうそぶいた。また神戸港を造る時は、「毎日、海辺に立って何をしているのだ?」と人にきかれ、「波と相談しているのだ」と答えたという。
そんな服部長七が、「これは参った!」と降参したのが、岡山港だった。
岡山港は、既に江戸時代から堤が築かれていた。改修を命ぜられた服部長七は、くまなく古い堤をみて歩いた。しきりに首をひねった。同行していた役人が、「何をそんなに感心しているのだ?」ときくと、「この古い堤は、理論的にも技術的にも、現在の技術をはるかに超えている。一体、誰が造ったのですか?」ときいた。役人は即答ができなかった。
役所に戻って調べてみると、熊沢蕃山が造ったものだと分かった。そこで服部長七に、「あの堤は熊沢蕃山という人が造ったのだ」と告げた。長七は感動して、「ぜひ、その熊沢さんに会わせてくれ。もっと話をききたい」といった。
役人は弱った。何百年も前に死んでいると告げると、長七はさらに目をみはった。
「そんな昔の人が、よくあんな堤を造った。これは驚いた」
自信家だったかれが、初めて先人の知恵と技術に降参したという話が残っている。熊沢蕃山は、そういうように学問を後輩に教えるだけでなく、実際に工事面でも優れた知識と技術を持っていた。
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