ただの悪者にしてしまっているが、「夏休みの友」の類に意味のある子どももいる。例えば、次の条件を満たす子どもであれば、意味がある。
- 学習への理解度が中程度で、自力で問題を解け、誤答の場合は答えを見て理解する力がある
- ドリル系学習への意欲がある(単純に問題を多く解くことが好き)
- 他に家庭で取り組む学習教材が一切ない
つまり、実施するにしても、買うか買わないか、選択式にする必要がある。同じものをやるにしても、ページ数や取り組む問題をカスタマイズできる必要がある。一律に出すことに問題があるといえる。もうできている子どもにはそもそも必要ないし、対極にある子どもには多すぎるのである。
こういったことが、学年内でも、家庭とも話し合われていることがプラスの効果を生む前提である。しかし、そういう形で取り組ませている例は、聞いたことがない。
こんなこと言っても「もう出してしまった」「出されてしまった」という状況かもしれない。その場合は、そうした事情も考慮した上で、夏休み明けに集めるだけである。見方、接し方が変わる(我が子が出された場合は、残念だが「がんばってやってください」としかいいようがない。「出さない」という選択肢もあるが、その主張をするなら、出される前にする方が筋が通る)。
これは、主体的・対話的で深い学びということとも関連がある。夏休みの一律の宿題という教育手法自体が、受動的で一方的で浅い学びを推進しているのかもしれない。
現代の教育における問題を端的に表しているのが、この宿題問題なのではないかと考える次第である。
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