ロソスの本には収斂の例が沢山出てくる。収斂(生態学的収斂)とは同じような環境に暮らす系統の異なる動物たちが同じような形になることだ。旧大陸の有胎盤類とオーストラリア大陸の有袋類の収斂はよく知られている。オオカミとフクロオオカミ、ネコとフクロネコなど、枚挙に暇がないが、カンガルーによく似た有胎盤類の動物は旧大陸の草原にはいない。
同じようなニッチに進出して、同じような形になって環境に適応しようとする動物もいれば、まったく違うやり方で、適応しようとする動物もいるということだ。同じようなやり方で、解決している動物たちを見る限り、局所的な進化は繰り返すように見えるが、それは可能なやり方の一つを選択しているだけで、必ずしもそれ以外のやり方がないわけではないことがわかる。解決の仕方に何らかのパターンがあることは、それが不可避であることを意味しない。
ロソスの本で一番面白かったのは、局所的、短期的な進化が反復するかどうかの、実験を伴った議論である。トリニダードの渓流に棲息するグッピーの体色は、そこに棲息する捕食者の存在と強く相関していた。強力な捕食者のいる渓流ではグッピーはオスもメスも極めて地味だが、捕食圧の高くない渓流ではオスは大変派手な体色になる。理由は単純で、目立つ派手なグッピーは捕食者に見つかりやすく、真っ先に食べられてしまうため、地味な個体ばかり生き残る。一方、メスのグッピーは派手なオスを好み、捕食圧が弱ければ、オスはどんどん派手になる。
これを検証するための実験が面白い。野外から採取したグッピーを全部一緒にしてしばらく飼育してから、200匹ずつランダムに選んで、実験室に設置した同じ条件のいくつかの人工渓流の区画に放流し、その後で、ある区画には捕食者を放し、別の区画には捕食者を入れないでおく。捕食者が入れられた人工渓流のグッピーの体色は世代を繰り返すごとにどんどん地味になるが、捕食者がいない区画のオスの体色はどんどん派手になっていったのだ。
というわけで、自然選択の結果適応的な形質を持ったグッピーは生き残り、非適応的なグッピーは淘汰されるというネオダーウィニストが喜びそうな結果が導かれ、個体群の遺伝的な条件や環境条件が同じならば、局所的、短期的な進化は繰り返す場合がある。しかしそうでない場合もあって、フラスコの中の大腸菌の実験では、今までの実験結果からは予測できない新形質が現れることもあるという。本来の意味での進化は新しい種や新しい形質の出現ということだから、本当の進化は予測不能なのである。そもそも予測可能な出来事は進化ではないのだ。
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