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ホンマでっか池田教授が面白いと思ったグッピーの体色の検証実験

CX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみ池田教授は、最近読んだ『生命の歴史は繰り返すのか?』という本をきっかけに、進化は予測可能か否かについて、生物学者たちがどう考えているのかをメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』で紹介しています。先生自身は、グッピーの体色の検証実験の結果など、進化のパターンを予測できることはあっても、「そもそも予測可能な出来事は進化ではない」という立場を表明しています。

生物の進化パターンは予測可能か

『生命の歴史は繰り返すのか?』(ジョナサン・B・ロソス著 化学同人)を読んで、少しく思うところがあるので、今回はそのことを書いてみたい。進化は偶然の産物なのか、それともある程度予測が可能なのかという悩ましい問題があって、ほとんどの生物学者は、カンブリア紀にさかのぼって生命の歴史をやり直しても、まったく同じ軌跡を辿ることはあり得ないだろうと考えていると思われる。 ただ進化は偶然だと考える論者にも多少のあるいは大いなる温度差があって、一番過激なのは2002年に亡くなった古生物学者のスティーヴン・J・グールドで、ベストセラー『ワンダフル・ライフ』で、カンブリア紀の動物の異質性は史上最大で、非運多数死を生き延びて、その後の動物たちの祖先になれたか、ならなかったかは単に偶然にすぎず、歴史をやり直せば、まったく異なる動物たちが進化しただろうと述べている。

異質性というグールドの用語は、高次分類群の多様性のことで、グールドはカンブリア紀には動物の門の数は100くらいあり、異質性が極めて高かったと主張した。ちなみに生物のヒエラルキー分類に従えば、分類群は高次から低次に、主なものだけを挙げれば、ドメイン、界、門、綱、目、科、属、種となる。例えばHomo sapiens は、真核生物(ドメイン)、動物界、脊索動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト科、Homo(ヒト属)Homo sapiens(ヒト、種)となる。

多様性ではなく、わざわざ異質性というコトバを使ったのは、門といったような生物の大きな枠組みは、新しく生じることがなく、一度絶滅すると復活しないとグールドが考えたからだ。一方、種は分岐していくつかの種に分かれたり、2つの種が交差して新しい種が出来たり、時には絶滅したりと、栄華盛衰を繰り返すことが普通だ。低次分類群の多様性は増えたり減ったりするのである。それに対して、高次分類群の多様性は減るばかりで、これに対しては別のコトバを当てた方がいいというグールドの考えは首肯できないこともない。

グールドが非運多数死という考えを固める基になった根拠は、カンブリア紀のバージェス頁岩の化石である。今は、ケンブリッジ大学の教授職に収まっているサイモン・コンウエィ=モリスは、若き頃、バージェス頁岩の化石を研究して、現在の動物の形とは全く異なる動物たちが生存していたことを明らかにした。アノマロカリス、ハルキゲニア、オパビニアといった奇妙奇天烈な動物の復元図を見た人も多いだろう。

グールドはこういった動物たちの多くは、現在の生物とは異なる門に属していたと主張したのだ。もちろん現在の生物と同じ門に所属する動物(例えば、ピカイアは原始的な脊索動物と考えられている)も多く、そうなると、門の数は現在の動物界の37門(分類学者の見解により多少前後する)よりはるかに多いことになる。たまたま絶滅した門はもはや復活せず、例えば、脊索動物の祖先種が運悪く絶滅したとすると、ヒトは現れなかったに違いない。グールドが過激だったのは、多くの場合、絶滅するかどうかは自然選択(すなわち環境に適応できなかった種は絶滅して、適応した種だけが生き延びた)の結果ではなく、運次第だと主張したことにある。

これに対し、バージェス頁岩の化石を実際に研究したコンウエィ=モリスは、グールドの門の数の見積もりは大げさで、実際にはカンブリア紀の門の数と現在のそれは、ほぼ同じくらいだったのではないかと主張した。そうだとすると、カンブリア紀に出現した沢山の門の非運多数死ということはあり得ない話になる。それどころか、コンウエィ=モリスは、進化をやり直しても、進化プロセスは繰り返すので、ほぼ同じような生物が出現するはずだと主張して、グールドの考えに真っ向から反対したのだ。

冒頭に紹介したロソスの本の帯には「進化は偶然か、それとも必然か」と記されているが、時間が一方向にしか流れない現実世界では、この二者択一の問いは意味をなさない。「進化は予測可能か、それとも不可能か」という問いならば、答えようがある。1億年後にどんな動物が地球上を闊歩しているかといった問いには、ペテン師以外の誰もが答えられない。進化が必然だとしても、進化の法則が分からない限り、どんな新奇な生物が出現するかの予測は不可能だからだ。

しかし、同じ遺伝子組成の生物を異なる複数の環境に放してしばらくたつと、この生物が環境の違いに応じて、どのように変化するかを予測することはできるかもしれない。過去の例を調べて、変化パターンに共通性があれば、同じように変化する可能性は高いだろう。もしそうであれば、局所的、短期的な進化は繰り返す場合があると言えるだろう。

ロソスの本には収斂の例が沢山出てくる。収斂(生態学的収斂)とは同じような環境に暮らす系統の異なる動物たちが同じような形になることだ。旧大陸の有胎盤類とオーストラリア大陸の有袋類の収斂はよく知られている。オオカミとフクロオオカミ、ネコとフクロネコなど、枚挙に暇がないが、カンガルーによく似た有胎盤類の動物は旧大陸の草原にはいない

同じようなニッチに進出して、同じような形になって環境に適応しようとする動物もいれば、まったく違うやり方で、適応しようとする動物もいるということだ。同じようなやり方で、解決している動物たちを見る限り、局所的な進化は繰り返すように見えるが、それは可能なやり方の一つを選択しているだけで、必ずしもそれ以外のやり方がないわけではないことがわかる。解決の仕方に何らかのパターンがあることは、それが不可避であることを意味しない。

ロソスの本で一番面白かったのは、局所的、短期的な進化が反復するかどうかの、実験を伴った議論である。トリニダードの渓流に棲息するグッピーの体色は、そこに棲息する捕食者の存在と強く相関していた。強力な捕食者のいる渓流ではグッピーはオスもメスも極めて地味だが、捕食圧の高くない渓流ではオスは大変派手な体色になる。理由は単純で、目立つ派手なグッピーは捕食者に見つかりやすく、真っ先に食べられてしまうため、地味な個体ばかり生き残る。一方、メスのグッピーは派手なオスを好み、捕食圧が弱ければ、オスはどんどん派手になる。

これを検証するための実験が面白い。野外から採取したグッピーを全部一緒にしてしばらく飼育してから、200匹ずつランダムに選んで、実験室に設置した同じ条件のいくつかの人工渓流の区画に放流し、その後で、ある区画には捕食者を放し、別の区画には捕食者を入れないでおく。捕食者が入れられた人工渓流のグッピーの体色は世代を繰り返すごとにどんどん地味になるが、捕食者がいない区画のオスの体色はどんどん派手になっていったのだ。

というわけで、自然選択の結果適応的な形質を持ったグッピーは生き残り、非適応的なグッピーは淘汰されるというネオダーウィニストが喜びそうな結果が導かれ、個体群の遺伝的な条件や環境条件が同じならば、局所的、短期的な進化は繰り返す場合がある。しかしそうでない場合もあって、フラスコの中の大腸菌の実験では、今までの実験結果からは予測できない新形質が現れることもあるという。本来の意味での進化は新しい種や新しい形質の出現ということだから、本当の進化は予測不能なのである。そもそも予測可能な出来事は進化ではないのだ。

image by: Shutterstock.com

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