部分否定が限度。「金が全てじゃない」の言葉が示す「金」の価値

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日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんが今回取り上げ論じるのは、「お金」です。山崎さんは、「全てじゃない」と言う人はいても完全否定することは誰にもできない「金」について思考を深めます。そして「金の価値」を担保しているものの危うさに辿り着きます。

金のこと

人は皆、金が好きだ。言い方が露骨過ぎるなら、金の嫌いな人はいない、と言い換えてもいい。

おそらくこれには反論の余地はなかろう。実際、金が入るたびに「ああ、けがらわしい」などと言ってそれを捨てて回るような人の話は今までたったの一度も聞いたことがない。仮にあったとしても、それはもう既に正気の沙汰とは言えない事態である。

とは言え一方では、金が全てじゃない、とも言う。これはこれでまたリアルに納得ができる考えである。ただ言えても「全てじゃない」という部分否定が限度である。つまり「大切な一部ではある」という訳である。

では我々の大切な一部をなす金の意義とは一体どういうものなのだろうか。思うに、金の哲学的価値はその代替性にあるのではないか。言い換えれば、掛け替えのない何かとは異なり、いくらでも掛け替えの利くものの第1位としてあるのが金なのではないだろうか。言うまでもないことだが、掛け替えの利くものは掛け替えの利かないものには及ぶべくもない。つまり永遠の2位である。

極端な例で説明すると、掛け替えのないもの、例えば命が失われたとする。この喪失を代替的に埋めるために保険金や賠償金、つまりは金が支払われる。これに納得できないからといって誰か(例えば犯人など)の命で払えとは言えないのである。その命もまた掛け替えのないものだからである。

このような極端例はひとまず置くものとしても「これさえあれば」「この人さえいれば」といったレベルでの掛け替えのないものは誰にでもある筈だ。前者を「夢」と呼び、後者を「愛」と言う。実際、今自分で書いていてもそうなのだが、これらのものはおそらくそれらが掛け替えのないものであるが故に言葉にするのが結構恥ずかしい。恥ずかしいから隠される。その結果表見的には、永遠の2位である筈の金が幅を利かせることになるのである。

だからいくら「世の中、金が全て」と嘯いてみたところで無駄なのである。それは同時に自分には「夢」や「愛」あるいはそれ以外の掛け替えのないものがある、と喧伝して回っているようなものだからである。

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