部分否定が限度。「金が全てじゃない」の言葉が示す「金」の価値

 

拝金主義という言葉があるが、こんなものは実際には存在しない。例えば、金を神棚に飾り朝な夕なこれを崇め奉る、といったようなことをする人間を実際に見たことがあるだろうか。おそらくない筈だ。あったとしてもそこまで行けば最早カルト級だから無視していい。

それでも異様に金に執着しているように見える人がいたら、それは金とほぼ正比例して手に入る掛け替えのないものをその人なりに求めているからである。それをおそらく「権力」と言うのであろう。

また金というものには数値(つまりは金額)によって多少や増減が分かり易いといった利便性もある。乱暴なまでに横断的に、世の中のありとあらゆるものを測る物差しとも言えるものなのである。

だからと言って絶対ではない。ひとたびこの物差しの目盛りに疑いが生じたら忽ち紙屑になってしまうこともあり得るのである。ハイパーインフレがそうである。つまり社会が安定してこその金なのである。社会における金の安定的機能が、個人における金の哲学的意義を担保しているということである。

その意味においては、公然と「金が好き」などと言えるような人は疑うことを知らぬ随分お気楽な人と言ってもいいのかもしれない。

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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