日々の生活でハウツーやマニュアルに救われることは多いものですが、対象を「子供」とした場合、それは通用するのでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、子供への教育にハウツーは適用できるのかを考察しています。
教育における「ハウツー」は通用するか
「こうすればこうなる」というのが「ハウツー」である。ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。
ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。
これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。タイプとは、類型化である。
例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。
教育のハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。違う人間なのだから当然である。
兄弟は違う性格に育つ。同じ親が育てているのにも関わらずである。「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳児の時点で全く違うのである。
つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる種が違うと考える。当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。
実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する)。多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。均質ほどつまらないことはない。ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。
競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。
公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。独自の個性を発揮して、他と調和することである。
まとめると、ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる)。
多種多様な個性の育成。これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。
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